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『乱読のセレンディピティ』

『乱読のセレンディピティ』
外山 滋比古
扶桑社、2014/4/5、¥994(丸善日本橋)

『思考の整理学』の著者による読書論。タイトル通り、乱読の効用について書かれている。いろいろな本を同時に読むこと、ゆっくりではなくある程度スピードを出すことでリズムが出てわかることがあること、古典になるには時間が必要なことなど読んでいてなるほどと思うことが多い。

●イギリスの有力書評誌、「タイムズ文芸批評」がかつて、二十五年前の誌面を再現して見せたことがある。
 たった二十五年であるのに、もとの書評のほとんどが正当を欠いていることが明らかにされた。二十五年でさえ、同時代批評は乗り越えることができないのである。
 近いということは、ものごとを正しく見定めるには不都合なのである。近いものほどよくわかるように考えるのは、一般的な思い込みである。自分のことがいちばんわかると思っているが、実は、もっともわからない。近いからわかっているように考えているが、やはり、本当のことは見えない。
 書評にしても同時代批評は近すぎるために見ちがえをする。目がくもっていて、本当のことがよく見えないのであろう。さきの「タイムズ文芸批評」は勇気ある企画によって、二十五年たつと、批評が質的に変化することを見せつけることができる。
 私の試考では、二十五年では少し足りない。三十年くらいたつと、文化的状況が一変する。十年ひと昔というが、まだ、充分に遠くない、二十年、二十五年も前の時代の影響が残っている。一世代、三十年たつと、知的風土がほぼ完全に刷新される。
 この三十年後の関所を越えたものが古典として永い生命をもつ。文学史の中に入り、よほどのことがない限り消えることはない。
 古典とはそういうように生まれる。つまり作品そのものを作るのは作家であるが、その価値、歴史的評価が決まるのは、作品、作者から三十年以上たったときからである。古典は原作が生まれて、三十年以上たたないと、古典になることができない。(pp.149-151)

☆少し長いが、古典とはどのように生まれるかについて書かれた部分。以前、楠木健が「十年前の日経ビジネスをよく読む」と言っていた。少し意味は違うけれど、当時と今でどのように評価や状況が変わったかを知るのにある程度の時間は必要だと言うことでは通じるものがある。


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