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『コミュニケーションは、要らない』

『コミュニケーションは、要らない』
押井守
幻冬舎新書、2012/3/30、¥798(TSUTAYA東大島)

押井監督による震災後の日本について、「コミュニケーション」と謳ってはいるが、内容はむしろ現在の日本に対して「異議を申し立て」(p.11)た本。言い換えると、「そういう話ではないのだ」(p.11)けれども、どういう話かはっきり言うことはできなくて、でも何か言いたいので書きますが、だからといって、この本に書いたことが必ずしも的確に私の言いたいことというわけではない、といった内容。

本質に戻れよ、という一人語りを延々とやった感じ。『攻殻機動隊』のバトウみたいな。たとえば原発については、なぜ最初に作ったのかというところまで戻って考えないとまたうやむやになってみんな忘れるよ、とか。現代日本文化論として読もうと思えば読める。それぞれの項目で一冊本が書けそうな内容を、色々詰め込んで書き散らしているので、消化できない。いい本だとは思うけど。

●周囲を幸せにするためになら、男はいくらでも嘘をつくべきだと僕は思う。ただし、大切なのは、嘘をつく限りは墓まで持って行く義務があるということだ。(p.52)

☆後段に書いてあるが、そんな甲斐性のある男が、現代日本に果たしているだろうか。言っていることはその通りなのだけれど。

●ヨーロッパやアメリカの先進国の政治家達はみんなエドワード・ギボンが記した『ローマ帝国衰亡史』
を読んでいる。
 なぜなら、ローマ帝国の衰退という前例に常に強烈な危機感をもっているからだ。(p.63)

☆「みんな」とは本当に「みんな」だろうかという疑問は残るが、この姿勢は見習いたい。

●共同体とか共同性を優先せざるを得なかった日本の文化的風土では、言葉というものはロジックとして使われず、その場しのぎの思いつきとして使われてきた。
 とりあえず口当たりの良いことを言って、その場をしのぐ。それは根本的解決にならないだろうとツッコむ者がいたなら、それは疎まれる存在となる。
 そうした歴史が積み重なる中で、言語に対する特殊な対応の仕方が生まれたのだ。(p.72)

☆言葉の多義性のため明確に定義せず延々と使う、みなまで言うなという日本人の美学がここから生まれた、と続く。確かにその通りかもしれないが、少しずつは「言葉を言葉として使う」曖昧さを排除した言葉も使われるようになっているのではないか。

●では、なぜ日本人の言語能力は明治期を境に低下したのだろうか?
 まず、第一の原因は、漢語教育を縮小してしまったからだ。日本人にとっての漢語とは、欧米人におけるラテン語であり、ギリシャ語だ。古典言語とは、言葉のルーツであり、ロジックそのものだ。その構造を意識し、読み下していくということ自体がロジックを組み立てる訓練になる。(p.79)
 さらにもうひとつ、日本人の論理的思考の成熟を阻害していったものがある。言文一致運動だ。[略] 簡単に言えば日本語という言語が「ロジック」という骨組みを捨て、「表現としての言葉」に流れていったのである。(p.80)

☆古典言語の重要性については同意。が、西欧言語だって、「何も(内容のあることを)言わないために、とにかく話す」というテクニックはあるのだから、現代日本語だけが非論理的とは言えまい。

●本来、文章を書きたいという欲求は極めて特殊な情熱だったはずであり、それは本になって初めて、客観的に存在することができるものだったのだ。だから僕は、本になっていないものは信用しない。
 本を読むときにはマーカーが必須だ。文庫本を一冊読むのに、ペン一冊をつかいきることもある。ほんの半分以上をマーカーで塗りつぶすこともある。受験勉強をしていた頃より、はるかに必死に本を読んでいる。(pp.82-83)

☆一回読みで読み切る感じか。

●知識をいくら詰め込んでも知識人になるだけで、知識人でも大馬鹿はいくらでもいる。教養人にバカはいない。バカにならないことをもって教養人と呼ぶ。それは、言い換えるなら「まっとうな価値観を持つ」ということだ。どんな知識や情報を得ようともそのことによって振り回されたりしないーーそれが価値観を持つということである。(p.85)
 誰もが知的なものに触れたいという欲求は持っていて、どこかに教養の欠落を感じてもいる。けれども、それを獲得するために多大な労力を費やしたくない。簡単にお手軽に、だれでも分かる方法で「情報としての知識」を獲得したいのだ。これでは、いつまでたっても「教養」を身につけることはできない。(p.86)

☆大変よくわかる。

●僕は最近ではもはや古典しか読まなくなってしまったが、その理由は、最初から「言葉の普遍性」が保証されているからだ。目先の情報を得ることより、古典の中にある言葉を再発見することの方が自分にとって意味があると思うからだ。
 本を読むということは、この世にいない人間とつきあう方法のひとつである。
 時代を超えて、そのように言葉を連鎖させることこそが、言語を共有することであり、文化なのだ。(p.92)

☆一人の人間が本当に作り出せる言葉などワンセンテンスくらいで、後は先人の引用を引用として伝えることが重要、という主張の後の文。大変ポストモダン的な考え方で、「作者の死」のフレームワークで読むと理解できるのではないか。

●今の日本では、戦争のことを妄想するだけで非難の対象となる。[略]
しかし、平和というテーマやコミュニケーションという題材を考えるとき、戦争という問題を避けて通ることができるはずがない。なぜなら、人間がその歴史の中で行ってきた最大のコミュニケーションとは戦争だからだ。(pp.120-121)

☆同意。第二次大戦中鬼畜米英といって相手の情報を遮断して負けたのと同様、戦争について語ることを忌避して戦争とは何かを知らなければ、戦争を防ぐこともできないだろう。

●リアリズムというのは様式のことだ。ほんとっぽい嘘なのか、嘘と明かしている嘘なのかという違いだ。(p.138)
 虚構の世界において、大江健三郎よりも山田正紀のほうが作家としてはるかに凄い仕事をした、僕はそう断言できる。現実に、今回の震災において、日本の作家や文化人と呼ばれる人間達は何ができたか。あいかわらず、自分たちには何かできるのではないかと思い上がった自問を垂れ流していただけだ。この非常時に文化人に何ができるかなどという問いかけは、もう50年も前に聞いたセリフだ。だったら、この50年は何をしていたんだと問いたい。(p140)

☆ゲームやフィクションをそのものとして追求してプレイした者、見た者にとっての実在としてこそ、映画や小説の意味がある、という主張。「フィクションによってしか描けないリアルがある」を言い換えたもの。小説家がオピニオンリーダーだった時代もあったから、完全否定するのはどうかと思うが、小説家が連名で声明を出したりするのが時代遅れという点で、押井の主張に同意。

●自分の知性の枠組みの中でしかものを考えられないというのは、本当にひどいことだと思う。それなら、僕にはドラクエ好きの少年の方がまだ信じられる。「動物化」という言葉があるが、現実にしか価値を求められないで目先の事象に反応して生きているだけどいうこの状態は、人間としても国家としても終末形態だ。(p.140)

☆怒っていることはわかるし、坂本龍一のような「文化人」が動物的反応として「反原発運動」して得意になっているのにはへきえきとするけれど、人間が動物であることを認識した上でどうするかを考えることこそが重要なのではないか。

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