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『万能鑑定士Qの事件簿XII』

『万能鑑定士Qの事件簿XII』
松岡圭祐
角川文庫、2011/10/25、¥540(L)

凛田莉子シリーズ12弾で、事件簿シリーズとしては最終巻。

太陽の塔で妻が行方不明になった男性から鑑定(解決)を依頼され、大阪に赴く莉子と小笠原。一方、太陽の塔では何でも裁縫してしまう機械が、最新技術を使った機械として展示されようとしていた。

●「ペニーオークションの発送元地域が未入力のままと見せかけておけば、それ以上追求されないだろうと思ったでしょうけど、十個以上出品しているんだからデフォルト表示のはずがない。あなたはちゃんと住所の一部を入力したんです。静岡県榛原郡川根本町地名(じな)に住めば、そのように偽装できるという前提で」(p.180)

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『やなりいなり』

『やなりいなり』
畠中恵
新潮社、2011/7/30、¥1,470(L)

しゃばけシリーズ第10弾。

いつも通り、若だんなと仁吉・佐助、家鳴たち妖とゲスト的に出てくる橋姫や雷獣、百魅などの物語。
そろそろ何か変化が欲しい時期だと思う。

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『超マクロ展望 世界経済の真実』

『超マクロ展望 世界経済の真実』
水野 和夫、萱野 稔人
集英社新書、2010/11/22、¥756(L)、4H

今起こっている世界経済危機は単なる景気循環ではなく、四百年続いてきた資本主義そのものの大転換期にいるのだ、という視点でエコノミストの水野と哲学者の萱野の対談として書かれている。

▲今まで少数の先進国が多数の途上国を搾取することで成り立っていた資本主義は、新興国・資源国の台頭による交易条件(=輸出物価/輸入物価)の悪化により行き詰まった。そこでアメリカは金融経済化によって経済にレバレッジをかけ利潤の極大化を目指したが、バブルを繰り返すだけで疲弊する。
現在の経済危機は通常の景気循環とは違うので、インフレを起こして解決するために金融緩和しても、期待する結果は得られない。

▲資本主義の初期は、国王が資本家であったが、時代が下ると国家権力の運営に携わる専門家と、労働を組織して事業をおこなう資本家にわかれてくる。資本主義の歴史を市場経済と同一視せず、権力という視点から見直す必要がある。

「交易条件の変化により資本主義の根本的な転換期を迎えている」という水野のメッセージは非常に説得力があった。また、萱野は気鋭の哲学者で世界の状況を非常にエレガントに切り取っている。二人がそれぞれの専門分野をうまく引き出しながら対談を進めていて、よくある「お手軽手抜き対談新書」とは一線を画していた。

●[萱野] 要するに、イラク戦争というのは、イラクにある石油利権を植民地主義的に囲い込むための戦争だったのではなく、[ユーロ決済に移行しようとしたイラクから] ドルを基軸として回っている国際石油市場のルールを守るための戦争だったんですね。(pp.47-48)

●[萱野] 基本的にアメリカの覇権の原則は植民地をもたないところにある。
 脱植民地化の過程で経済を支配する方法は一気に抽象化しました。つまり、領土を経由せずに他国の経済を支配するようなやり方へとシフトしてきたのです。脱領土的な覇権の確立、これがおそらくグローバル化の一つの意味なのです。(p.50)

●[水野] これまでのグローバル化というのは、つねに少数の人が外部に有利な交易条件を求めて、そこから利益を得るというかたちでしたが、いま起こっているグローバル化では、地球全体がグローバル化するぞということになって、そうした外部が消滅してしまったのですね。(p.86)

●[萱野] [社会をうまく動かせるだけのルール策定能力がないという] 意味で今後ヘゲモニーが中国に移るとは考えづらい。[略] ヘゲモニーを獲得するためにはさらに情報戦を制して、世界のお金やモノの動きにかんするさまざまなルールや制度を策定する力がどうしても必要となるのです。[略] そう考えると、中国が世界の工場になっても、その利潤をコントロールするのはやはり大西洋のどちらかの側になるだろうと思いますね。
 [水野] 私もその可能性が高いと思います。損益計算書を見た訳じゃありませんが、韓国のサムスン・グループの上げた利益のうちの半分ほどは欧米系の資本に吸い上げられていると言われています。(p.100)

▲[水野] 歴史的に資本主義のメリットを享受する定員は全人口の15%と推定できるが、今後新興国の人々が豊かになりだすと、現在豊かな先進国10億人の中の誰かがはじき飛ばされる。(pp.105-106)

●[萱野] 資本主義はけっしてたんなる市場経済として成立してきたのではありません。資本主義は長い間、先進国が軍事力を背景に有利な交易条件を確立しつづけることで成立してきました。そこでは覇権国が平滑空間[=法を無視して自分の好きにできる空間] を創出して、対等な交換というにはほど通りやり方で富を獲得してきた。この意味で、資本蓄積の原理というのは交換よりも略奪に近い。1970年代以降の金融経済化の動きだって、けっして市場の力だけでなされたものではありません。それはアメリカという国家のヘゲモニーをつうじて、そのヘゲモニーを維持するために、なされてきたものです。資本主義はけっして市場経済とイコールではなく、そこには国家の存在が深く組み込まれている。(p.121)

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『私、社長ではなくなりました。』

『私、社長ではなくなりました。 ― ワイキューブとの7435日』
安田佳生
プレジデント社、2012/2/28、¥1,470(有隣堂亀戸)2H(含blog)

2011/3/30に民事再生法適用を申請したワイキューブの元社長による回顧録。回顧録というよりは懺悔録になっている。『千円札を拾うな』などのイケイケの頃からは180度回転して今の暗い気持ちのまま書いたという感じがする。あまり役に立つ内容ではないかもしれないが、倒産した「今」だから書ける本、という意味で他山の石として一読の価値はあった。

学生時代、アメリカ大学留学、リクルート時代、ワイキューブでの独立、豪華なオフィスなど奇抜なマーケティングで一世を風靡した頃、そして民事再生に至るまでの過程。それらを非常に鬱々とした感じで書き連ねている。

とにかくコツコツやることが嫌いで一発逆転的な発想で物事を考えるため、うまくいくときはうまくいくが、基本に忠実な経営をしていないために少し歯車が狂うとあっという間に転落してしまった、ということがわかる。本人も言うとおり、経営者というタイプではなかったのだろう。そういう意味で、ワイキューブ役員だった中川智尚氏が事業継続会社のカケハシスカイソリューションズの代表に就任し、優秀な人材を引き留めたことは将来に希望を残す会社の終わらせ方ではあったと言えるかも知れない。

それにしても、ワイキューブ立ち上げから民事再生まで、本当に盟友と言える役員達を複数得られたということは、少なくとも著者にそれだけの魅力があったということで、それは本当にうらやましく思いながら読んだ。

●私たちがこの業界で生き残るには、大手と同じ事をやっていても無理だ。自社媒体を売るという大手と同じビジネスモデルからは、脱却する必要があった。
 私たちはひとつの決断を迫られていた。
 2005年、翌春卒業分の採用を最後に「就職コンパス」を綴じた。媒体事業に関しては、私たちは同業である毎日コミュニケーションズの代理店となった。
 デジタル媒体への挑戦を最後に、寺社媒体を捨て、採用コンサルティングに特化する道を選んだのだ。(p.92)

☆星野リゾートが「リゾート運営の達人」を目指して所有を捨て運営に特化したのと同様に、選択と集中をしたということになる。では私たちの会社はどのように選択すべきか。例えばコンサルティングの道はあるのだろうか。今後の検討課題。

●[アルバイト部隊を解散して落ちた営業力を補うために] 始めたのが、DMによる集客だった。こちらから電話をして顧客をつかまえる営業から、顧客から問い合わせてもらう営業へ転換しようと考えたのである。(p.95)

☆一つの営業手法として参考になる。

●[営業先で会う社長たちが自分の知らないことを知っていて劣等感に苛まれ、営業に行くのが嫌だったが] 根本的に変わらないといけないと思い始めてからは、どういうビジネスモデルをつくるべきなのかをとことん考えた。昼も夜も考え続けた。
 そうやって考えたことをメルマガで発信していった。
 三、四年が経ったころ、気づくと営業先の社長の話がわかるようになっていた。相手に対し、「では次はこういう取組をしてみたらどうですか」といった提案もできるようになっていた。
 何年か真剣に考え続けた結果、世の中の社長たちが何を考えているのかが、わかるようになった。そればかりでなく、考えなくてはならないことの内、何を考えていないのかがわかるようになっていたのだ。[略]
 同時にこうも考えた。世の中の社長達が考えることの半歩先を提案し続ければ、必ず売れるはずだ。(pp.98-99)

●[本を出版した] 少し前からは、自分たち自身のブランディングにも気を遣うようになった。
 まだ売上が伸び悩んでいたころ、得意先の社長から「おたくの売上が伸びないのは、安田さんも役員も社員もみんなダサいからだ」というキツい一言を浴びたのがきっかけだった。[略]
 「ダサい奴に仕事なんかださないだろう?おしゃれになればそれだけで売上が上がる」と話す社長に連れられ、丸の内近くのセレクトショップ「トゥモローランド」でスーツを何着か購入し、恵比寿の美容院で髪を明るい茶色に染めた。[略]
 七億円で頭打ちだった売上が、十億円を超えたのもこのころだった。売上とスーツが関係あるのか半信半疑だったが、他人のアドバイスは聞いてみるものだと思った。(pp.134-135)

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『キャラクターメーカー―6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』

『キャラクターメーカー―6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』
大塚英志
アスキー新書、2008/4/10、¥780(丸善本店)

『ストーリーメーカー 創作のための物語論』の姉妹編。キャラクターを構成する要素を割り当てたマトリックスに、サイコロを振って決めたそれぞれの要素を、組み合わせて組み立てることで一つのキャラクターを簡単に作れる、という内容。「キャラクターを作る」とは、「物語」と不可分であり、また、その根底に「私を表現する」という問題が潜んでいる、という問題意識に貫かれている。

大塚の著書ではいつもそうなのだが、従来の文学に非常にシニカルな見方をしている。自分でも「こういう挑発的な書き方をするから嫌われるのでしょうが」(p.21)と書いているくらい立ち位置がはっきりしていて、固有性を排してサイコロの目で決めたキャラクターの方にこそ作り手の固有性があふれてしまう、という逆接を本書を通じて主張している。確かに少し一面的な物の見方に過ぎるところはあるかもしれないが、また逆に一面の真理を突いているように感じる。

●作中で主人公を見つめる「私」もまたアバター[=こちら側の人間がもう一つの世界を生きるための「化身」]である、ということは、近代小説の特徴である「内面」とは、ハリウッド映画的にいうとゴーストアバターであり、日本的近代小説としての私小説とは、ゴーストアバター形式を採用した小説、ということになります。ぼくは小説などの主人公に読者は直接感情移入するべきだという発想は「日本的」といえるかもしれない、と記したのはそのような意味においてです。(p.28)

●一つはアバターとは自分自身を見つめる視点、つまり「私」や「内面」という近代的個人とセットになったものの意味でもあること。
 二つめは、アバターは構成要素に還元できて、それは1920年代のアヴァンギャルド芸術の中にあったモダニズム的な思考に出自を持ち、決してウェブ成立以降のポストモダンなものではないこと。
 一つめのアバター観は「私」というものの固有性、「私」は「私」以外の何者でもない、という問題に関わってきます。対して二つめの問題は、キャラクターはそれを構成する単純な要素に還元され、一つ一つのキャラクターはその機械的な順列組み合わせに過ぎない、という考え方を可能にします。それは更に一歩進めれば、人間というもの一人一人に固有性があるのか否かという問いとして受け止めることができます。(pp.43-44)

●ぼくがよく明治の村上春樹という言い方で言及する水野葉舟という作家の小説「ある女の手紙」[略] は三人の若い女の子が一人の「お兄さま」に一斉に手紙を送り、誰がお兄さまの関心を魅くかを競い合う、というもので、三人の手紙が順に配列されます。[略]
 さて注意して欲しいのは、「候文」から「言文一致」にスイッチした瞬間、そこに彼女たちの「私」が現れるということです。[略] つかの間、ある種の仮想現実としての言文一致体の「手紙」の中でのみ「私」というアバターを演じることが可能であった、と感じられます。けれどもそれは「妹」たちに限ったことではなく、花袋や葉舟ら男の文学者たちも、「私小説」というバーチャルな世界で「私」というアバターに「内面」を語らせているに過ぎません。(pp.63-64)

●以前『キャラクター小説の作り方』の中でまんがやアニメ的なキャラクターが一人称叙述的な「私」をもって自己言及する形の小説を「キャラクター小説」と呼んだことがありますが、「私小説」もまたその意味で「キャラクター小説」だという立場を変えるつもりはありません。 
 しかし「私小説」がやっかいなのは、この「私」を私たちは本当の私と思いこんでしまうところです。[略] そもそもこの「私」を一人称とする文章はいくらでも「アバターとしての私」を立ち上げることができます。(pp.65-66)

●ぼくの祖母ぐらいの年代の人は、今でも頭の先に毛糸の玉がついたニット帽を「正チャン帽」と呼びますが、こsれは作中で長い間、正チャンが被っていた帽子に由来するものです。(p.116)

●アフガニスタン及びイラク戦争は、ぼくには「現実」の『スター・ウォーズ』化にしか思えませんでした。今もそう思います。(p.240)

●一つだけ余計に理解しておいてもらえると嬉しいのは、この国の近代まんが史が産み落としたキャラクターは、ポストモダン的な手法でモダンを描こうとしている点に特徴がある、ということだ。ウェブ上のアバターがそうであるように、キャラクターは一面において既に描かれたもののサンプリングと順列組み合わせに過ぎない。[略] このようなキャラクター観は近代的個人や人間の主体性を拠り所とするオリジナリティという考え方と真っ向から対立するように感じられる。(p.257)


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