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『増補 広告都市・東京: その誕生と死』

『増補 広告都市・東京: その誕生と死』
北田 暁大
ちくま学芸文庫、2011/7/10、¥945(蔦屋書店代官山T-Site)

廣済堂出版から出されて絶版になっていたものの改版。旧版を読んだことがあり、大変面白い内容だったので、購入した。

広告をキーワードに、その歴史的成り立ちを考察した上で、80年代から90年代の渋谷の変遷をたどる。

資本の論理の至上命題である「差異を見いだせ。そして利潤を得よ」(p.27)を満たすために生まれた広告は、近代初頭の段階では商品の機能を詳しく述べることによって差異を生み出していた。そして都市中産層が勃興する19世紀末になると、言葉による機能説明よりもヴィジュアルデザインによって差異を生み出す「ソフトセル」といわれる手法が広告に取り入れられていく。その後広告は自らが広告であることを隠すことによって広告するという「スーパー・ソフト・セル」とでも呼ぶべき幽霊的な身体を1930年代以降に身につけていく。その行き着く先に、映画『トゥルーマン・ショー』にシーヘヴンで描かれた、全てが広告という世界が誕生する。しかし、あまりに精密に計算された世界は、「脱文脈性を本質とする」広告自身によって崩壊する。
以上のような世界が、日本では80年代から90年代の渋谷で現実化した。80年代、西武パルコを中心とした街の設計によって、歩くもの見るものそしてそこに身を置く自分自身さえもが広告になり、広告は街の中に身を潜める現実のシーヘヴンが誕生した。90年代になり、それが崩れてむしろ広告が広告であることを隠さず、そこが「渋谷」である必然性もないCF化された空間として『ランキンランキン』や『QFRONT』が誕生し、「広告都市」は死を迎える。

今回の文庫化で収録された補遺では、「広告都市」の死後、終わりなき日常に耐えられない大人達が映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などに見られる昭和30年代のシミュラークルに取り憑かれる様を、映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を題材に考察する。
結論から言えば、不正・不条理な社会状態と、超時間的・非空間的な形で設定された理想状態とのズレを観察し、そのズレを埋めるべく人々へのコミットメントを求める、昭和30年代ブームを基礎づける「オトナ帝国」の主宰者ケンの思想が、おおよそ思想性をもたない、凡庸な日常に敗北する。終わりなき日常(の堕落)を拒絶するオトナ帝国の思想が、日常を生きるほかない郊外の子どもたちの現実に敗北する。

本書は、北田も告白しているように、本来は旧版に対して新版・続編として出版される予定だったが、まとまりきらずに補遺として付加されたものとして出されたものになっている。従って、前半のキーワードとなっていた広告は、補遺では触れられていない。恐らく、昭和30年代ブームの考察の後に広告との関係が描かれていくはずだったのではないかと思う。

2010年代に入り、twitterやfacebookなど、つながりを強要するインターネットプラットフォームの誕生とともに、広告はさらにその姿を変えて私たちの前に姿を現している。そのあたりの社会的変化がどのように展開されるのか、今後に期待したい。

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