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『此処彼処』

『此処彼処』
川上弘美
新潮文庫、2009/9/1、¥460(BO¥105)

日経新聞の日曜欄に一年間連載したエッセーをまとめたもの。思い出のある土地の記憶を季節季節に合わせて書いている。

●長い一週間だった。逼塞していて、けれど何やら豊かで、そのときは早く時間が過ぎてくれないかと願うばかりだったが、あれから十八年たった今思えば、あんな贅沢な時間はもう二度と過ごせないのだと分かる。
 大切な時が、大切だったと知るのは、いつだってその時が遠く過ぎ去ってからだ。マダガスカルの秋の日差しは淡かった。淡くて、つくづく、美しかった。(p.169)

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『蛇を踏む』

『蛇を踏む』
川上弘美
文春文庫、1999/8/10、¥440(BO¥105)

『蛇を踏む』ヒワ子は薮の中で蛇を踏んだ。「踏まれたので仕方ありません」と言って蛇は女の形になり、家に居着いてしまう。
『消える』消える家族と縮む家族の結婚。
『惜夜記』夜にまつわる不思議な話。

抽象度が高く、何のメタファーかよくわからない。雰囲気は笙野頼子に似ている気がする。
初期の川上はこんな小説を書いていたということはわかったが、次第に恋愛小説的な路線に変わってきたということなのだろう。

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『パレード』

『パレード』
川上弘美
新潮文庫、2007/10/1、¥420(BO¥105)

『センセイの鞄』のツキ子が、幼い頃の思い出をセンセイに語る。
小学校のころ、赤い天狗がついてくるのに気がつき、同級生にも同じようなものがついているのが見えるようになった。ゆう子ちゃんをみんなでいじめた時には天狗が病気になった。といった話。

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『哄う合戦屋 』

『哄う合戦屋 』
北沢秋
双葉文庫、2011/4/13、¥650

戦国の中信濃。小豪族の遠藤吉弘のもとに天才軍師石堂一徹が流れ着き、数ヶ月の間にあっというまに遠藤を2万石の大名に押し上げる。しかし、武田晴信の来襲が現実となったとき、遠藤は一徹の進言を聞かず小笠原長時についてしまう。

架空の豪族と軍師の話で、流れに任せて読むエンターテイメントとしてよくできている。ただ、最後の場面で一徹が仁科盛明の追撃を予想せず「さすがに、仁科盛明はやるものよ」(p.343)と言わせてしまったところで、「天才軍師」として作り上げた物語が崩壊している気がする。逆に、だから一徹は遠藤を捨てて自分の夢を追うのではなく、そこで死ぬことを選んだ、と善意にとることもできるが、それは読者に甘え過ぎというものではないだろうか。

また、できのよい姫と不器用な主人公という設定が『のぼうの城』に似ていて、色々邪推して読んでしまった。

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『暴力団』

『暴力団』
溝口敦
新潮新書、2011/9/16、¥735

暴力団とはどういうものか、現在どうなっているか、暴力団の枠組みに入らない半グレ集団について、今後の暴力団について、詳しく書かれた本。

暴力団についての一通りの知識を得ることができ、今後は暴力団よりむしろマフィア化や半グレ集団が大きな問題となる可能性があることを知ることができた。

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『古道具 中野商店』

『古道具 中野商店』
川上弘美
新潮文庫、2008/3/1、¥540(BO¥300)

東京の西の近郊の町にある古道具屋にアルバイトで勤めた「わたし」と、店主中野さん、姉マサヨさん、なんとなくつきあってるタケオ、中野さんの愛人サキ子さん、といった面々の物語。

時系列的に中野商店での日々があって、それが終わったところで数年後に舞台が移る、というのは『センセイの鞄』でも使われている手法で、内容自体は違うけれど、『センセイの鞄』を平行移動したような小説。

中野商店が閉店し、数年後「わたし」とタケオが「できの悪いドラマみたいだし、これって」(p.321)とタケオ自身が言う再会をするところは苦笑して読んだ。

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『どこから行っても遠い町 』

『どこから行っても遠い町 』
川上弘美
新潮社、2011/8/28、¥540

どこにでもありそうな商店街で、どこにでもいそうな人たちの日常を描く。魚春の主人平蔵と源さんのところで買い物をする塾講師唐木妙子の話から始まり、一編ごとに少しずつ登場人物を移しながらそれぞれの物語が語られ、最後に平蔵の亡くなった妻春田真紀の物語で終わる。

一編ごとに少しずつ登場人物をずらす小説は、林真理子の『みんなの秘密』や佐藤泰志の『海炭市叙景』でも見覚えがあるので新奇な感じはしなかった。『みんなの秘密』よりは毒が少なく、『海炭市叙景』の絶望的な暗さよりはもっとぼわっとした空気感といった印象。

商店街の人物の物語を一巡させて最後の一編が死者である春田真紀の視点からの話になっており、編中でも「あたし、春田真紀という女が、今でもこうして生きているのは、平蔵さんと源二さんの記憶の中に、まだあたしがいるからです」(p.302)と語らせるように、袖を振り合い、何らかの関係を持ち、記憶に残ること、それが人間が人間でいること、ということを言いたいのだろうかと推察はした。ただ、本書自体を読み終わって『センセイの鞄』のような余韻はなく、結局何の話だっただろうか、と思い出せないくらい淡い印象の小説だった。

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『米国製エリートは本当にすごいのか?』

『米国製エリートは本当にすごいのか?』
佐々木紀彦
東洋経済新報社、2011/7/8、¥1,575

スタンフォードに留学した著者による日米の大学教育比較。
日本の歴史観や軍事力への現状認識にもバランスのとれた良書。

●それでは、なぜ米国の大学は経済学を重んじるのでしょうか。
 経済学の教科書で有名な、ハーバード大学のグレゴリー•マンキュー教授は、三つの理由をあげています。「自分が暮らしている世界を理解するため」「経済へのより機敏な参加者になるため」「経済政策の可能性と限界とをよりよく理解するため」の三つです。これを私流に意訳すると、「よき教養人となるため」「よき経済人となるため」「よき有権者となるため」となります。(p.71)

●むしろ、米穀流教育の強みは、一見分かりにくい実践性にあります。具体的にいうと「演繹的に物事を考える能力」「限られた情報から物事を予測する能力」を鍛えるよい訓練になります。仮説を立て、それを検証し、修正して行くーこうした習慣を、米国の学生は毎日叩き込まれるわけです。日本では、留学やコンサルティング会社での勤務経験がある人間でもない限り、こうしたトレーニングを受ける機会はありません。(p.75)

●日本人と米国人では、抽象的思考能力(コンセプト)と現場感覚(リアリズム)のバランスが真逆であるように感じます。日本の現場主義は、トヨタを代表とするカイゼンを生み出し、製造業の競争力を支えていますが、日本人はつい"現場絶対主義"に陥ってしまいます。抽象的な理論ばかりにこだわると、現実離れした答えに行き着くリスクがありますが、現場感覚ばかりに浸ると、目の前の情報に引っ張られて、問題を大局的に見ることができなくなってしまいます。(p.77)

●[取材相手の自動車会社ディーラー]社長いわく、「担当地域が決まったら、その県の歴史を徹底的に勉強する。そうすれば、県の特徴や県民性がわかり、販売戦略を立てやすくなる」。実際に彼は、その手法により、各地で結果を残していたのです。[略] 人も組織も国も、過去のくびきからは逃れられません。人や国や組織の本質が容易には変わらないからこそ、歴史を学ぶ意味があるのです。そして、将来に向けたビジョンを描くのに役立つからこそ、米国のエリート教育では歴史が重視されるのです。(p.110)

●知力の核となる、インプット能力を高めるにはどうすればいいのでしょうか。[略]
 やわらかくて気軽に読める本を10冊読んでも、得られるのは散漫な知識とたくさん本を読んだという自己満足のみ。それよりも、内容の深い本一冊を机に座って集中して読み、体系的に知識を仕入れる方が、長い目で見ると能率が上がるのです。(p.234)

●私の一番のお勧めは、有名教授の授業のシラバスを参考にすることです。そこに記されている課題図書は、専門家のスクリーニングがかかったものですので、一定の質が保たれています。それらを徹底的に読み込めば、あるテーマについて、専門家と話しても恥ずかしくないだけの知的ベースが出来上がります。
 最近は、多くの教授が自身のホームページや大学のサイトでシラバスを公開していますから、入手は簡単です。論文の多くは、無料でダウンロードできますし、書籍を購入するとしても、実際に授業を受けるのに比べれば、格段におトクです。集中すれば、教授が三、四ヶ月かけて教えるすべての課題図書を、一、二週間で読破できます。(p.236)

●米国から見た日本の近現代史について知りたければ、MITのリチャード•サミュエルズ教授のシラバスがお勧めです。彼の著書『日本防衛の大戦略』とワシントン大学教授のケネス•パイルのJapan Rising (Publicaffairs)は、日本の近代から現代の外交史を英語で学ぶ際の良書です。(p.236)

●私は、教師としての大学教授の力量は1)構成力(授業のテーマや教材の選び方、その順番の決め方)、2)司会者としての能力、3)批評家としての能力、の三つにあると思っているのですが、1)の構成力は、実際に授業を受けなくても、見極めが可能です。ある教授が勧めている課題図書を読んでみて、退屈かつ凡庸なものが多ければ、もう読み進める必要はありません。一方、試し読みして面白いと感じたら、その教授の推薦図書をぶっ通しで読んでみることです。そうすれば、米国の大学で授業を実際に受けるのと遜色ないレベル、ときにはそれ異常の知力向上を望めるはずです。
 大学院二年開始前の夏休み、私はこの手法を実践すべく、ひたすら図書館にこもって論文•書籍を読みあさったのですが、このちきに一番知力の向上を実感しました[略]。(pp.236-237)

●この例に限らず、「勉強の真髄とは自習である」と身に染みて感じます。帰国後、多くの方から「留学生活で一番学んだことは何ですか」と聞かれたのですが、いろいろ考えた末に行き着いた答えは、「自習のための正しいフォームを身につけることができた」ということです。非常に地味ですが、これこそがスタンフォード生活での最大の学びだと思っています。(p.237)

●逆に、米国の場合、知力に自信のある人ほど批判を歓迎します(そういうフリをしているとも言えますが…)。他人のアドバイスをうまく取り込んでいきながら、自分のアウトプットを洗練させて行くのです。これは[略] 単純に「慣れ」と「打算」の問題でしょう。彼らは、小さい頃から、人格や感情を切り離して、議論するトレーニングができています。そして、自らのアイディアを批評の俎上にのせることが、メリットになることをよく理解しているのです。(p.239)

●同様に、批判をお願いする人間の選び方も重要です。[略] その意味で、知力とは、センスと知性に溢れた批判者をどれだけ周りにもてるかという、"人脈のクオリティ"の問題でもあるのです。(p.240)


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『真鶴』

『真鶴』
川上弘美
文春文庫、2009/10/10、¥540(BO¥300)

娘の百が生まれて間もない12年前に夫礼に失踪され、以来母、娘と女三人で暮らしてきた京(けい)。幽霊のような女の影にいつもつきまとわれ、夫の日記にあった「真鶴」の言葉に引かれ、たびたび真鶴を訪れるようになる。真鶴で女の影と巡り歩く内、現実と幻影が混ざり合うように京を惑わせる。

ストーリー自体は、夫に失踪され精神のバランスを欠いた主人公が、その喪失感をもてあましながら物書きとして暮らしていく中で編集者と不倫をし、娘を育て、12年経ってようやく夫の失踪を認めて精神のバランスを取り戻す、といった話。文庫版解説の三浦雅士は、「ついてくるもの」である女の影を、小説を書くという行為に不可避的に付随する「自分」という幽霊であると述べて、書くことは「幽霊に付き合うこと」(p.263)と読み解く。

『センセイの鞄』とはまったく趣が違い、人間の内面に潜り込んでいく感覚を抱かせる小説。一度読んだだけではどう解釈すればよいか途方に暮れる内容で、三浦の解説を読んでああそうか、と表面的にはわかったつもりになっても、本当のところは腑に落ちない。それほどの理解を求められるのが小説ならば、自分には文学的才能がないのだな、と思うだけのこと。

真鶴で「バスは十分後」(p.207)という時間で止まってしまった空間に閉じこめられ、礼との過去を振り返り、振り返り終わったときにバスが来る。この場面は、京が心の整理を終え前を見る覚悟ができたことを示すところだが、『センセイの鞄』の「中間みたいな場所」に通じる場所のように感じた。

また、本作の「ついてくるもの」というモチーフは天童荒太の『悼む人』でも取り上げられていて、それを思い出した。

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映画『モテキ』

映画『モテキ』
109シネマズ木場
監督:大根仁
出演:森山未來、長澤まさみ、麻生久美子、リリーフランキー

もてない男藤本幸世が、半ニートを卒業してニュースサイトの記者になり、twitterつながりで雑誌記者みゆきと出会ったことからモテキが訪れる。
幸世が出会う四人の女性はそれぞれニュースサイト上司、雑誌記者、OL、子持ちガールズバー店員と個性豊かで、幸世は妄想を全開にしながらも仕事をすることで少しずつ成長していく。
キャッチは「恋が攻めてきた」とあるように幸世が受け身に徹しているような印象だが、実際には彼自身が就職をし、社会と接触を持ち、30代という年齢を自覚していくことで道が開けているので、彼の成長物語として見ることができる。ただ、女性視点でこの映画を見ると、どうなるのかはよくわからない。
また、サブカルの引用が随所に配置されているようで、細かく見るとまた違った見方が出来るのかも知れない。

色々と自分にも身に覚えのある話が映し出されて、昔を恥ずかしく思い出しつつ楽しく見た。

●「 お前みたいなサブカル糞野郎から金巻き上げる為にこの会社立ち上げたんだよ」(墨さん)

☆リリーフランキー演じるニュースサイト「ナタリー」社長の墨さんのセリフ。このセリフはそのままこの映画について監督が考えていることではないか。

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『ルポ 電子書籍大国アメリカ』

『ルポ 電子書籍大国アメリカ』
大原ケイ
アスキー新書、2010/9/10、¥780(L)

日米両国にまたがって出版エージェントをしている著者によるアメリカ電子書籍事情。

アマゾン・アップルなどによる電子書籍化の広がりと、従来型出版社の戦略を網羅的にえがいている。本書内で今後の戦略が注目されると書かれたアメリカ第二位の書店チェーンボーダーズはすでに破産して清算されているなど、電子書籍を巡る状況は一年の間にも日々刻々と変化し続けている。
では日本はどう対応するか、ということになると著者はその対応の遅さにいらだちを隠さない。結局、本を読者に最も良い形で届けるために電子書籍が使われるのならば対応すべきだ、というスタンスに立てば、日本の出版社や印刷会社などの対応はまさに「抵抗」にしか見えないだろう。

●[エディターのリチャード・ナッシュ]の話に何度も出てきたのは、「著者」と「読者」で作るコミュニティーという言葉だ。そこでは出版社や取次や書店は主役ではないし、なければないでよい。ハードカバーだとか、電子書籍だとか、それは出版社が作って用意するものではなく、お金を出して読む側が自分にとって一番読みやすいフォーマットを選ぶものなのだ。(p.147)

●紙の本にこだわる読者にとっては、マイナス面も出てくるだろう。これからの時代、本屋に行って、紙の本を買ってじっくり読むというのは贅沢なことになっていく。それに見合う支出をする覚悟がなければ、どんどん電子書籍が増え、紙の本の選択が狭まってくるのは避けられない。読みたいけれど、ちょっと高いから文庫になるまで待とう、と思っていたら永遠に文庫本にならないタイトルも増えるだろう。(p.170)

●日本以外のさまざまな国の出版業界関係者と仕事をしていて、彼らの口からまず出てこない言葉が「出版文化を守る」というセリフだ。もちろん、本が好きでこの世界に携わる人たちばかりなので、紙の本にたいする愛着も、仕事に対する熱意もプライドも人一倍持ち合わせている。だが一方で、出版「ビジネス」の厳しさに対する覚悟や、「本」も音楽やテレビやゲームといったエンターテインメントの一つでしかないのだという諦観が感じられることも確かだ。(p.175)

●さらに、印刷会社が主張する「組版権」というものがある。彼らに言わせれば、組版は印刷会社が作り上げた知的財産で、それは印刷会社に帰属する。だから勝手に電子書籍を作るのは組版権の侵害にあたるという言い分だ。だがこれも、こじつけとしか思えない。組版は、印刷会社が出版社からの注文にしたがって本を作る上でのただの技術であって、知的財産ではない。また、組版データを保管しているのは自分たちなのだから自分たちのものだ、と主張しているようだが、知的財産に対する権利が印刷会社に帰属しているのではなくて、単に出版社側が自分たちで管理すべきデータを預けっぱなしにしているということだ。(p.177)

●結局の所、彼らの主張する「守るべき日本の出版文化」などというものは、実のところは自分たちの既得利権にほかならない。長引く出版不況を、版元、取次、印刷会社、書店が痛み分けで堪え忍んできたのに、ここにきて外国勢の電子書籍のせいで自分たちだけが中抜きされるのはイヤだ、というところだろう。守るといいながら、競合社同士で談合し、自分たちに都合のいい規格を押しつけるのは著者も読者もないがしろにする行為だ。(p.177)

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