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『趣都の誕生―萌える都市アキハバラ 増補版』

『趣都の誕生―萌える都市アキハバラ』
森川嘉一郎
幻冬舎文庫、2008/12/5、¥680(八重洲BC)

オタク街化するアキハバラを「萌え」を一つのキーワードに、その歴史的変化を考察する。
手塚治虫によって発見された、漫画絵のエロチシズムは、その後萌えとして花開く。一方、国の威信を体現していた建築デザインは、その失墜とともに民=資本の論理を体現するものとなり、それすら越えて個を体現するものとして秋葉原の萌えビルが誕生する。同時に、民を志向する建築は外国をめざし、個を志向する秋葉原的建築は内を目指す。本来自室の内にこもっていた個の趣味が街に表出したのが秋葉原である。

さまざまな歴史的要因を読み解きながら、萌える秋葉原がいかにして生まれたかを描いた本書は、一時秋葉原通いをしていた自分の体験による印象とよく合っていて、腑に落ちる。文庫では増補として秋葉原通り魔事件を取り上げ、その影響について考察している。

松岡正剛の解説も興味深い。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1248.html

趣味が、都市を変える力を持ち始めたのである。これは都市史において、前代未聞の現象である。(p.22)

渋谷や吉祥寺でもなく、神保町でもなく、なぜ秋葉原なのか。[略] それは、他の場所にないような人格の偏在が秋葉原に起こっていたからである。[略] それはパソコンを好むマニアの集中によって発生した。そしてパソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージきっとも愛好する蛍光がある。オタク趣味ノ構造である。その趣味の構造が、歴史や地理、行政といった旧来的な構造に代わる新しい街の形成構造として、秋葉原の変化をもたらしたのである。(p.56)

eビジネス分野で用いられるようになった概念の一つに、コミュニティ・オブ・インタレストというものがある。インターネットの発達が基盤となって、地縁・血縁に因らない、趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティが形成され、そうした集団の重要性が増していくという考え方である。(p.56)

何よりもパソコンは、専門家に占有されていたプロフェッショナルな技術を個人の趣味的運用に供するという、下方指向性を強く持っている。ワープロはかつて活字が帯びていた権威性を、子供の覚え書きレベルにまで引きずり下ろした。最新鋭の演算チップは、テレビゲームに蕩尽される。アメリカが子供の聖性を描くのに使ったセルアニメの技術を、性と暴力を描くのに使って変質させようとする欲望と、それは方向性を共有している。(p.107)

80年代にこうしたパラドックスが発生した頃からすでに、東京都マンガの関係は逆転していたと言ってよい。つまり東京は、マンガに魅力的な舞台を提供する側から、もっぱらマンガによって魅力的なストーリーを付与される側へと転落したのである。あるいは今や、東京への失われた魅力の充填を求めて、東京を舞台にしたマンガが読まれていると言っても過言ではない。(p.118)

[『東京ラブストーリー』で] 都市風景はあくまで平板に描かれ、華やかに恋情を盛り上げたりはしない。輝く<東京>がラブストーリーを喚起し、あこがれを吹き込むのではなく、東京にあこがれを注入するための自立した<ラブストーリー>がそこにある。都市風景や都市ビジョンに代わって、もはや凡庸な街でしかなくなった東洋は、幾多のそうした東京ラブストーリーズを含むコマーシャル媒体によってかろうじて<東京>として特化せしめられているに過ぎない。輝ける都としての<東京>はすでに終演しているのである。

<建築>とは有り体に言ってしまえば、太陽の塔の形をした大屋根のようなものである。建築の中の建築である西洋の大聖堂を思い浮かべれば、このことは容易に了解できる。宗教的権力が、空間を覆う架構の形態によって表現されている。ところが、近代以降に宗教や君主に代わって建築表現に力を供給し続けてきた国家、制度、公共性、地域、大企業資本、社会階層、マス・イメージなどが衰退・細分化・流動化したことによって、かつてのような一枚岩の長期的な社会的価値を形成するものがなくなった。つまり、そのような観念を大きく永く表彰するという建築の特質に合致する対象が失われたのである。その結果、建築はシェルターとしての機能だけを残し、ある種の高級さを持った建物を<建築>として区別せしめていた諸々の表彰機能を建築から分離して、よりフレキシブルで訴求力のある媒体に移した方が効率がよくなったのである。(pp.152-153)

オタクの部屋の事例を見ていくと、ハイテク機材が趣味に関わるほど部屋がクリーンルームから遠ざかる傾向がある。[略] オタクの空間感覚の傾向がそこに反映されている。キャラクターに対する関心が高い一方で、空間に関する関心が低いのである。(pp.168-169)

秋葉原は80年代末期以降、家電需要を郊外の量販店に奪われた。後に秋葉原をオタクの趣都へと変貌させたこの凋落には、弐拾の<未来>の喪失が絡んでいた。一つは家電製品が、未来的な生活をもたらす「神器」としての光彩を失ったこと。もう一つは東京という首都自体が、高度成長期の頃のような進歩的な活力を失ったことである。オタクとは、この喪失の申し子である。さまざまなオタク趣味は、この喪失を補填すべく生成されている。家電の街からオタクの趣都へという秋葉原の変化は、オタクという人格の発生の、都市による巨大な模倣なのである。(p.176)

技術とは優れて文化的な産物であり、また文化そのものである。パソコンの普及とともに世界を覆っている情報技術は、「グローバル」な属性ものに見えて、その実ハリウッド映画と同様にアメリカ西海岸の文化に他ならない。このパソコンという技術に内包されているアメリカ文化に対し、そのヒッピー的な下方指向性と親和しつつも、まさいsくその下方指向性に沿って、その技術を自分の趣味に同化させようという態度がオタク趣味の基調を成している。<アメリカ>の失墜によって発生したムーブメントから<未来>の喪失がもたらした趣味へという、喪失の文化の系譜がそこに受け継がれている。(pp.205-206)

それまでのバックボーンが喪われたこともあって、建築家たちは強大なキャピタリズムの力に無関心ではいられなくなった。公共的理想の追求といったきれい事ばかりにこだわってはいられなくなり、大企業から超高層ビルや巨大商業施設のコミッションを得るべく、国境を越えて景気の良い国に群がるようになった。ところが、営利企業に採用されるためには、大衆のテイストに合致するようにしなければならない。そして企業側も、建築家をハイヤーするからには自らのイメージアップのための材料として利用したいという思惑がある。この共犯関係を粉飾するために編み出されたのが、ポストモダンという標語なのである。[略] これと同じように、批判にせよ祝福にせよ、ポストモダンを説く哲学者や文化人たちは、このイメージアップに荷担することになったのである。例外的事例もないことはないものの、ポストモダニズムの建築とは実質上、キャピタリズムの建築なのである。(pp.228-229)

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