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『街場のメディア論』

街場のメディア論
内田樹
光文社、2010/8/17

大学のメディア論授業をまとめたもの。メディアへの批判にあふれている。
が、口当たりの良い読みやすい本を出すことを出版危機の一因と批判する著者自身が、口当たりの良い、読みやすい本を書いて出しているという自覚があるのか、多少疑問が残る。

日本のメディアが一貫して「クレイマー」の増加に加担してきた(p.66)

僕が知る限り、医療機関に対して仮借ない批判を向けることによってのみ医療の室は改善され医療技術の水準は向上するという信憑をメディアは一度も手放したことがありません。(p.80)

「批判すればするほど、医療の水準は上がり、医療の質はよくなる」とメディアは信じ込んでいる。どのような実定的根拠があって、そのようなことを思い込めるのか、僕にはよくわかりません。少なくとも自分自身を振り返ってみれば、「他人に仮借なく批判されればされるほど、知性の働きがよくなり、人格が円満になる」というようなことはありえないということくらい彼らにもわかるはずです。でも、自分にはできないルールを他人には平気で適用する。(pp.87-88)

メディアでは、個人は責任を取らない。責任を取ることができない。(p.89)

数年前に、メディアが凄まじい医療バッシングを展開した医療事故事件報道がありました。そのときの「世論」の形成について、[『医療崩壊』を書いた虎ノ門病院の]小松[秀樹]先生はこう書いています。
「記者が、責任の明らかでない言説を反復しているうちに、マスコミ通念が形成される。これが『世論』として金科玉条になる。この段階で反対意見を吟味することもなく、また反対意見が存在することを示すことすらせず、同じような報道を繰り返す。これは暴走といってよいと思う。なぜ『暴走』かというと、しつこいようだが、この過程に個人の責任と理性の関与、すなわち、自立した個人による制御が及んでいないからである。」(p.92)

どうせ口を開く以上は、自分が言いたいことのうちの「自分が言わなくても誰かが代わりに言いそうなこと」よりは「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」を選んで語るほうがいい。それは個人の場合も、メディアの場合も変わらないのではないかと僕は思います。(p.103)

社会制度の中には商取引の比喩では論じることのできないものもあるということは忘れない方がいい。さしあたり、「市場経済が始まるより前から存在したもの」[教育と医療]は商取引のスキームにはなじまない。(p.107)

「うかつに教育制度をいじるな」という主張をなしたメディアも、僕の知る限り存在しなかった。というのは、社会制度の変化はよいことであるということはメディアにとって譲ることのできぬ根本命題だからです。考えれば当たり前のことですけれども、社会が変化しないとメディアに対するニーズがなくなるからです。(pp.110-111)

市場原理を教育の場に持ち込んでは行けない。[略] けれども、メディアはそのような説明をうまく呑み込むことができません。相変わらず教育崩壊の「犯人」探しと、「根本的な制度改革」の喫緊であることだけを言い続けています。「社会制度は絶えず変化しなければならない、それがどう変化すべきかは市場が教える」という信憑そのものが教育崩壊、医療崩壊の一因ではないのかという自問にメディアがたどりつく日はくるのでしょうか。(p.122)

「読書は消費者である。それゆえ、できるだけ安く、できるだけ口当たりがよく、できるだけ知的負荷が少なく、刺激の多い娯楽を求めている」という読者を見下した設定そのものが今日の出版危機の本質的な原因ではないかと僕は思っています。(p.130)

これまで読者として認知されなかった人たちを読者として認知したこと。それこそが電子書籍の最大の功績だと僕は思います。(pp.131-132)

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