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獄中記

獄中記
佐藤優
岩波現代文庫、2009/4/16

小泉改革の熱狂の中、鈴木宗男議員と連座して逮捕・起訴された元外務省員佐藤優による拘置中の手記。
本書では、佐藤が逮捕されて獄中にいる間の日常生活、いわばウラの生活を描いたもの。逮捕から裁判に至るオモテの記録は、「国家の罠」で描かれる。

拘置中、他の被告が次々と検察のシナリオ通りに自白する中、佐藤は一貫して容疑を否認し、514日の長きにわたって勾留される。なぜ彼が孤独な闘いの中で自己を保っていられたか、あるいは、厳しい尋問の日々のなか、悠々と自分のための勉強を続けることができたのか、本書を読むと感動を覚える。
彼は同志社大学神学部の出身で、生活の芯に哲学があった。その哲学が、彼の信念を支え、濁流のような事件のさなかに自己を保つ錨の役割を果たしたことがよくわかる。今まで自分が勉強したことがなんであったか振り返ったとき、このように自己の生活にここまで生かすことができていないことを顧みて、反省をさせられる本でもある。
本書は、様々な読み方ができると思うが、単に佐藤の獄中日記として読むのではなく、勉強法として読むのがむしろ適当だと思う。

「新たな国策」へ転換する舵は既にきられており、この流れを止めることはできません。おそらく、四ー五年経って、日本の地域格差が拡大し、地方住民の不安が高まり、日本と周辺諸国との緊張がかなり高まるようになったところで、「新たな国策」の問題点が認識され、「従来の国策」の肯定的側面が見直されるのでしょう。四ー五年では不十分で、この見直し過程に10年かかるかもしれません。(p.40)

小泉改革を「陽画(ポジ)」とすれば、鈴木路線は「陰画(ネガ)」である。換言するならば、小泉改革がなければ、鈴木が逮捕されることもなかった。(p.58)

国策捜査の場合、「初めに事件ありき」ではなく、まず、役者を決め、それからストーリーを作り、そこに個々の役者を押し込んでいきます。その場合、配役は周囲から固めていき、主役、準主役が登場するのはかなり後になってからです。ジグソーパズルを作るときに、周囲から固め、最後のカケラを「真っ黒い穴」にはめこむという図式です。役者になっていると思われるにも関わらず、東京地検特捜部から任意の事情聴取がなかなかこない場合は要注意です。主役か準主役になっている可能性があります。(pp.63-64)

知性には、能動的知性と受動的知性があると言いますが、現在、私の能動的知性は一時休止状態の様です。こういうときは、もっぱら受動的知性に頼る語学の勉強に集中することが得策と思い、この土、日は、約十時間ずつドイツ語に取り組んでいました。[中略]大学で一年半かけて消化する教科書を33日間で終えた訳ですから、なかなか効率的です。(pp.65-66)

私が学術書を精読するときは、同じ本を三回、それも少し時間をおいて読むことにしています。
第一回目、ノートやメモをとらず、ときどき鉛筆で軽くチェックだけをして読む。
第二回目、抜粋を作る、そして、そのとき、内容を再構成した読書ノートを作る。
第三回目、理解が不十分な箇所、あいまいな箇所についてチェックする。
このような読み方をすると、十年経っても忘れることはまずありません。(p.168)

私は知識人というのは、自己の利害関係がどのようなものであるかを認識した上で(つまり、自分には偏見があるということを認めた上で)、自己の置かれた状況をできるだけ突き放してみることのできる人間だと考えています。この訓練が一般教養であり哲学なのだと思います。この訓練を欠いて知識や技法だけを身につけると、自分の世界の切り口からしか他の世界を見ることができなくなってしまいます。(p.172)

私のインテグリティーが崩れないのは、そもそも私の「視座」が複眼的だからだと思うのです。このことについては獄中生活をするなかで初めて気づきました。この「複眼性」が検察の目からすると私が「変わり者」に見えるところなのでしょう。
私自身が常に心がけているのは
(1)よきクリスチャンでありたい。
(2)よき官僚でありたい。
(3)よき知識人でありたい。
ということです。[中略]この三つの行動原理に対応する価値観は、
(1)神に対して誠実でありたい。
(2)日本国家(国益)に対して誠実でありたい。
(3)知に対して誠実でありたい。
ということなのです。(pp.207-208)

一般市民による検察のコントロールなどというのは、メディア受けはよいでしょうが、司法権力を大衆に委ねると、現下、日本の場合、世論の動きにあわせて次々と事件が作られ、冤罪のオンパレードになるでしょう。(p.244)

『太平記』巻26を読んでいて、「馬鹿」というのがきわめて政治的概念であるということをはじめて知りました。
始皇帝死後、秦の第二代皇帝胡亥が側近政治に頼っていたところ、側近の趙高は権力の簒奪を考え、自分の力がどれくらいあるかを知るためにちょっとした実験をします。鹿に鞍をつけて、皇帝に献上し、「この馬にお乗りになってください」と言います。皇帝は、「これは馬ではない。鹿である」と答えました。趙高は、「そう思われるのでしたら、宮中の大臣達を読んで、鹿、馬のどちらであるかを訪ねてみてください」と言います。皇帝が大臣や貴族をことごとく読んで質したところ、全員馬ではないことはわかっているが、趙高の力を恐れて、「馬です」と答えました。皇帝が鹿と馬の区別について真剣に悩むようになったのを見て、趙高は、「これで俺に逆らう者はいない」と考えるようになります。
[中略]「鈴木代議士が恐くて、言うなりになっていました」という外務省関係者の検面長所は、まさに「私は馬鹿者です」と言っているのと同じです。「馬鹿」とは知性や能力の問題ではなく、誠意、良心の問題であるということは新たな発見でした。(pp.279-280)

戦後、西ドイツの知識人は、ドイツからヨーロッパへと世界観の基軸を移した。その実践的帰結がEUであり、欧州通貨統合なのだろう。しかし、ドイツ人の基軸はヨーロパより先、つまり、人類はもとより、欧米(大西洋主義)、ロシア(ユーラシア主義)にものびていかないだろう。西ローマ帝国の再建というイメージを超えることができないのだと思う。(pp.364-365)

いずれにせよ、学術的思考になれるということと、アカデミズムのトレンドを知るということでは、『思想』には毎月目を通しておくことが望ましい。(p.403)

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