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早矢仕andカレー二色盛り

丸善日本橋店。

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遠い太鼓

遠い太鼓 (講談社文庫)
村上春樹
講談社文庫、1993.4.15

梅田望夫の書いた記事を読んで、買った。

「四十歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かをあとに置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。試してはみたけれどやはり気に入らないので、もう一度以前の状態に復帰します、ということはできない。それは前にしか進まない歯車なのだ。僕は漠然とそう感じていた。」(p.16)
「四十という分水嶺を越えることによって、つまり一段階歳を取ることによって、それまではできなかったことができるようになるかもしれない。それはそれで、素晴らしいことだ。もちろん。でも同時にこうも思った。その新しい獲得物とは引き換えに、それまでは比較的簡単にできると思ってやっていたことができなくなってしまうのではないかと。」(p.16)
「年を取ることは僕の責任ではない。誰だって年は取る。それは仕方のないことだ。僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。それは仕方のないことではない。」(p.16-17)

40歳という人生の分岐点をどう自分の中で消化し、新たな道を歩むかを整理するために、村上は3年間ヨーロッパで旅人として過ごすことを選んだ。本書で出てくる様々なエピソードは、それ自身大事だったり、どうでもよいことであったりする。しかしそれよりも重要なことは、そのように日記を書き連ねること自体が彼にとってそれまでの人生を振り返り、整理し、濾過し、捨てるための儀式でもあったということだろう。
だから、本書を読むこと自体によって、読者も一つの分岐点を村上と共に越える体験を見いだせるのではないか。少なくとも、遠い太鼓を聞けなかった自分の40歳を振り返ることはできた。

取り返しがつかないことを、過ぎてから気づくのはなかなか辛い。

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儲かる会社の社長の条件

儲かる会社の社長の条件
小山昇、岡本吏郎
アスコム、2007.10.10

教えるだけではダメ。社員に気づかせる仕組みが大切。(小山、p.66)
企業は1、3、5の法則で動くから、事業を2倍、3倍にするつもりがちょうどよい。(岡本、p.75)
社長の性格は貸借対照表の右側に出る。(岡本、p.98)


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日本人の精神と資本主義の倫理

日本人の精神と資本主義の倫理 (幻冬舎新書 は 3-1)
波頭 亮、茂木 健一郎
幻冬舎新書、2007/9/30

いかにも「プロ倫」をパクりました、というタイトルに釣られて買った。
だいたい言っていることは次の通り。

・ピアプレッシャー(出る杭は叩く/平均値に引きずり下ろす)が強い日本では個性が出ない。
・日本人にはビジョンが欠けているから欧米に勝てない。
・経済だけを価値観とするモノカルチャーを脱してもっと様々な価値観を大事にせよ。
 たとえば、日本の神社など、文明化以前のものに思いをはせよう。
・経済格差を気にするな。
・自分たちの言っていることのほとんどは、戦争開始直後に「近代の超克」で語られたことの繰り返し。

言っていることにそれほど違和感はないが、対談なので深い議論にまでは行っていない。問題提起としては興味深いことは言っているが、ともすれば「今の日本はだめだよね」というよくある話に堕しかねない危険性をはらんでいる。

アメリカで寄付が盛んなことを採りあげてピューリタニズムの倫理が生きているという一方、日本の富裕層が寄付をしないことを挙げて、倫理性が軽視されていると非難する。(p.18)
アメリカのIT科学者が100ドルパソコンの普及を目指していることを例にビジョンがあると言う一方で、日本にはビジョンがないと嘆く。(p.117-118)

確かに対談で語られるこのような例はアメリカでプロテスタンティズムの倫理がいまだそこに健在であることを示しているかもしれないが、ではそれに対して日本における倫理とは何か、について何を語っているのか。経済合理の価値観だけではなく昔の神社のようなものを大事にしよう、というのが倫理だというのか。どうもよくわからない。

序文で茂木は確かにプロ倫のことを書いているが、それならばタイトルは「日本人の倫理と資本主義の精神」であってしかるべきだろう。なぜ「資本主義の倫理」なのか、今ひとつ納得がいかない。
資本主義は経済制度であって、合理主義という精神はあるがそこに倫理はない。ウェーバーはプロテスタンティズムのもつ禁欲的、天職観念という職業倫理がいかに経済合理という資本主義の精神を体現したか、ということを論じたのであって、資本主義に倫理があると論じてはいない。
もしウェーバーを本書に当てはめるならば、日本人の倫理がいかに資本主義の精神とかかわるべきか、という議論ならば納得もいくが、その逆というのは私にはどうも理解ができないし、序文での茂木はそれを認識していたはずだ。

第一章「大衆というバケモノが野に放たれた」を共産党宣言のパロディと読むのはさすがに考え過ぎか。

本書中、波頭がワーキングプアのことに触れ、年収200万でも生活できる、などといった話をしているが、この点だけはいかにも認識不足と言わざるをえない。今やワーキングプアの問題は生死に直結していて、しかも今普通の生活を維持できていてもいつそこに落ちるかわからないという不安定な生活を強いられる予備軍が多数待機している、という現状を把握していないとしか思えない。

あとがきで波頭は、自分たちの語ったことが「近代の超克」の延長であることを率直に語っている。「逃走論」もポストモダンも問題を解決しなかった今、逃げている場合ではないのだ(p.188)、と波頭が述べるとき、本書を読んだ後ならば一定の説得力を持つだろう。ならば本書のタイトルはプロ倫からではなく「現代の超克」とでもパクるべきではなかったか。

少なくとも自分よりは頭のよさそうな二人の対談本だから、不備はいろいろ指摘できたとしても刺激を受けたことは確かだ。だからこそ、本書にはもっとタイトルをしっかり詰めてほしかった。自分はタイトルで釣られて買ったので、出版社の商売としてはこれで正しいのかもしれないけれど。

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adjudication

10/7に某イギリス系ディベート大会のジャッジ。
色々な人と久しぶりに会えたり有意義な話を聞けたり。
manoloさんにいろいろ教えてもらったり。
しかし4試合のジャッジはもう体力的に無理。毎試合トピックも違うし。

いつものこととはいえ、イギリス系だと、多少自分が場違いな感じ。
議論の聴き方やら評価方法が少し違うのかも。気のせいかもしれないけれど。


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情報環境論集―東浩紀コレクションS

情報環境論集―東浩紀コレクションS
東浩紀
講談社、2007/08/02

イソクラテスさんrecommends。

第一部「情報自由論」は情報社会における権力のあり方、第二部「サイバースペース」はネットの発展に伴って、近代で大きな役割を果たした視覚が影響を失いつつあることについて。

第二部はラカンやらジジェクやらでなんだかよくわからない。
第一部第三回「規律訓練から環境管理へ」は、監視社会化する情報社会での権力のあり方を分析する前提としてフーコーの権力を整理している。
説明が平易なので(わかりやすくするために単純化しすぎているのかもしれないけれど)、フーコーという山の周りを、登山口を求めて2年間さまよってようやく、「これか?」という隙間を見つけた感じ。

 交通警察は信号を無視するドライバーを拘束することができる。私たちはそれを権力だと感じる。しかし同じ秩序は、その強制力だけではなく、各人の順法精神によっても保たれている。ならば、その精神を植えつける社会制度、それもまた権力の一部と見なそうではないか、というのがフーコーの提案である。
 権力には、人々に特定の行動を選ばせる強制的な側面だけではなく、その行動様式を選ぶように価値観を変えていく「構成的」な側面がある。このような視点に立てば、交通秩序を支える権力は、もはや警視庁や国土交通省の専有物だと考えることができなくなる。同じ権力はかたちを変えて、教習所のプログラムから、交通事故の報道姿勢、さらには「横断歩道は左右を見てから渡りましょう」と教える小学校教師の語り口まで、あらゆる場所に宿っていることになるだろう。近代社会の権力は、日常的にイメージされるような一極集中型で強制型のものではなく、遍在型で主体構成型のものなのだ。(p.39)

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