« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

涼宮ハルヒの退屈

涼宮ハルヒの退屈
谷川流
角川スニーカー文庫、2004.1.1

ハルヒシリーズ第三作。
野球チームを作ったり、七夕祭りでキョンは朝比奈と3年前に行くはめになったり、コンピュータ部の部長が失踪したり、孤島に合宿に行けばそこで殺人事件に遭遇したり。
超論理的な展開が加速する。

| | トラックバック (0)

書店繁盛記

書店繁盛記
田口久美子
ポプラ社、2006.9.23

書店業界は厳しさを増している、と前作書店風雲録で書かれた1990年代が、のどかな時代に思えてくるほど厳しさの度合いが加速した2000年以降の書店業界の状況を、リブロからジュンク堂に転職した著者が再び一書店員の視点から書き記す。
グーグル八分といわれる恣意的な選択が実はアマゾンでも行われていた話、独特な店作りで一世を風靡した青山ブックセンターの話、一見同じ本が並んでいるように見える書店でも、棚作りにはその店の思想や個性が出る話、そしてネット書店の拡大とリアル書店の未来についての話、など「本」を巡るさまざまな興味深い話が一書店員というミクロな視点から描かれる。そしてそれが結果的に大きな環境変化を浮き彫りにしていくという点で、前作と並んで高い資料的価値を有する本である。

「しかし、本のプロとアマを分けるのはこの編集力ではないか、とつらつら思う。私たちが『自費出版』という分類わけをするのも、そのへんに理由がある。出版社と著者の契約で『書店におく』と決められた本が取次から入荷し、小説なりエッセイの棚に入れるとなんだか浮くのだ、プロの作った他の本にはじかれてしまう。...一般小説の棚に入れるのを躊躇させる出来なのだ。」(p.146)

| | トラックバック (0)

涼宮ハルヒの溜息

涼宮ハルヒの溜息
谷川流
角川スニーカー文庫、2003.10.1

ハルヒは文化祭に向けてSOS団で映画を撮影することを思いつく。しかし、撮影が進むに従って、ハルヒが望むシチュエーションが現実化し、カラーコンタクトからレーザービームが出て物を破壊したり、猫が話し始めたりする。このままでは再び世界が危なくなる。キョン他のメンバーはいかに事態を収拾するかに頭を痛める。

涼宮ハルヒシリーズ第二作。
世の中はゲーム化しているなあ、という印象。登場人物の深い内面は描かれず、メイド服やバニーなどの設定を微細に描き込んでいく。

| | トラックバック (0)

あたりまえだけどなかなかできない社長のルール

あたりまえだけどなかなかできない社長のルール
石野誠一
明日香出版社、2007.3.3

社長の仕事は次の5つ。
1. 昇給・賞与を決めること
2. 銀行付き合い
3. 税務対策
4. 会社の将来設計
5. 10年に一度の人員整理(p.4-5)

社長経験35年の著者が、社長業のポイントを心構え、金、人、税金の章立てに従って列挙する。。本書の中身は、冒頭に書かれた5点がすべてを言い表しているといってよい。
もっとも、これが一番難しいのだけれど。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

書店風雲録

書店風雲録
田口久美子
ちくま文庫、2007.1.10

著者の田口久美子は、リブロ各店を経験し、池袋店店長を務めた後、ジュンク堂に転職し、現在は池袋本店副店長を務める。その書店一筋の田口が、一書店員の立場から見た出版業界や書店業界の動向を、1980年代を中心につづる。
北田が「広告都市東京」で描いたような渋谷で、舞台装置の一つとして書店がどのように西武で位置づけられていたかや、堤清二の文化に対する姿勢などが、まさに実体験として記されている。たとえば、「『新しい時代の精神の根拠地』としての美術館、そのロビーに構える『美術活動の一環』としてのミュージアムショップ、『現代を書物で表現する最前線』としての、しかも『詩のショップ』つきの大型書店、そして『最先端のメディア装置』としての出版社、堤清二の『文化装置の環』はこのようにして完結していった。」(p.128)と1980年代初頭の状況を述べる。
また、現代小説が芥川賞タイプと直木賞タイプに分けづらくなり、書棚の作り方も難しくなる体験をのべつつ、では、純文学と大衆文学はどう区別できるか、ということについては、「だからつい先日、八月二日のジュンク堂でのトークセッションで、作家の保坂和志が『ナマな感情をそのままの言葉では書かない』という主旨の発言をし、受け手の坪内祐三が『それが純文学と大衆小説の境界じゃないんですか』とさらっと答えたとき、私を襲った感情は『懐かしさ』であった。しかしこの人は私にとってなんてタイムリーな答えをいつも用意してくれるのだろう、感謝。とはいえ、その『境界』は本というパッケージの外観からは読み取れない。ああなんとかならないか、書店員の私はじれる。」(p.290)と、これも自らの経験を率直に書く。
文体は必ずしも簡明とはいえない部分もあるが、本書の内容はその不備を補ってあまりある。書店業界の、とくに1980〜90年代の動向を知る上で資料的価値もある本といえるのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新橋演舞場五月大歌舞伎

2007/05/18 昼の部:新橋演舞場(1階9列19番)

1. 歌舞伎十八番の内 鳴神
 鳴神上人:染五郎 雲の絶間姫:芝雀
2. 鬼平犯科帳 大川の隠居
 長谷川平蔵:吉右衛門 船頭友五郎:歌六
 長谷川久栄:福助 同心酒井祐助:錦之助
 同心木村忠吾:松江 小房の粂八:歌昇
 与力佐嶋忠介:段四郎 岸井左馬之助:富十郎
3. 釣女(つりおんな)
太郎冠者:歌昇 上﨟:芝雀 大名某:錦之助
醜女:吉右衛門

海老蔵の芝居で受けた精神的ダメージを癒すためにあえて見に行って正解。口直しとしては最高。
当日売りで残り三枚のうち一枚を購入したが、とちりの真正面席でラッキー。外題に鬼平があるためか、平日昼にもかかわらず男性客がいつもより多め。男4人連れというふつうの歌舞伎ではなかなかなさそうなグループもいた。
1. 染五郎、芝雀とも公演。破戒に至るところは何度見ても楽しいが、舞台を壊さず演じきる。
2. 平蔵の役宅から父の形見の銀煙管を盗んだ元盗賊友五郎に意趣を返し、改心させる。
殺陣はないが、歌舞伎にあった外題。
もはや吉右衛門でない平蔵は考えられないほどのはまり役。脇を固める役者も皆よく、テレビシリーズの役者と比べて特に劣る配役はない。
富十郎の左馬之助は、今回はほんのちょい役だが存在感十分。福助の久栄は、若干演じすぎの感もあるが、旗本の奥方としてはひどいというほどではない。歌昇は鬼平の常連なので無難。段四郎は故高橋悦史を思い出させる重厚な佐嶋。松江は軽薄な忠吾をうまく演じている。
3. 独身の大名某が、おつげに従い嫁を釣り上げる。それをみたこれも独身の付き人太郎冠者が、自分もと釣り上げたのが醜女。必死に逃げようとするが、逃げられない。喜劇狂言。
吉右衛門がここまでやるか、というほどの醜女メイクで観客を笑わせる。さらに、醜女の吉右衛門が、「錦ちゃーん」と叫んで錦之助の踊りに声援を送ったり(錦之助も笑いをこらえきれなくなっていた)、拍手のまねをして観客に錦之助への拍手を要求するなど、今まで見たことのないエンターテイナーぶり。歌昇との息も合って、楽しい舞台。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歌舞伎座團菊祭五月大歌舞伎

2007/05/13 昼の部:歌舞伎座

1. 泥棒と若殿(どろぼうとわかとの)
 松平成信:三津五郎 梶田重右衛門:秀調 鮫島平馬:亀蔵
 岡野甚吾:亀三郎 成田作兵衛:亀寿 宝久左衛門:市蔵
 伝九郎:松緑
2. 天覧歌舞伎百二十年記念:歌舞伎十八番の内 勧進帳
 武蔵坊弁慶:團十郎 源義経:梅玉 亀井六郎:友右衛門
 片岡八郎:家橘 駿河次郎:右之助 常陸坊海尊:團蔵
 富樫左衛門:菊五郎
3. 与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)[切られ与三]
・木更津海岸見染の場/源氏店の場
 与三郎:海老蔵 お富:菊之助 蝙蝠安:市蔵 鳶頭金五郎:権十郎
 和泉屋多左衛門:左團次
4. 女伊達(おんなだて)
 木崎のお駒:芝翫 中之嶋鳴平:門之助 淀川の千蔵:翫雀

1. 権力争いに巻き込まれ、山奥の廃屋敷に幽閉された若殿成信が、そこに入った泥棒伝九郎と心を通わせる。一時は町人として自由に生きることも考えるが、権力争いが終結すると、自らの責任に目覚め、大名家を継ぐことを決心し、伝九郎との別れを惜しむ。
 三津五郎と松緑は無難。まだ台詞をかむが、辰之助時代に比較すると台詞回しは成長。
2. 團十郎の弁慶は、神経が行き届いて緊張感のある演技。菊五郎、梅玉は手堅い。引っ込みの飛び六方で感涙。
3. 海老蔵は相変わらずで、新之助時代からあまり変わっていないような。菊之助のお富はよし。左團次、菊之助、市蔵でかろうじて舞台になっているか。
4. 芝翫は、見る踊りではなく、感じる踊り。若衆の宙返りなどが見所。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母の発達

母の発達
笙野頼子
河出文庫、1999.4.26(図書館)

 私(ダキナミ・ヤツノ)は、大学受験のころから母が縮んで見えるようになる。そしてそのうち私の発する言葉通りに母は変形を始め、最後にはワープロの小さな記号と化してしまう。(「母の縮小」)
 母はヤツノに殺されるが、それは新しい母になるための再編成を促す。「世間が母やという偽の母をやっつける、正義の味方みたようなおかあさんに」(p.69)なるために。そしてあるべきお母さん白書をソウカツし、もとからのお母さんを全部解体したのち、「あ」の母から「ん」の母まで、発達を始める。(「母の発達」)
 家出した母を訪ねてヤツノは世界中を旅する。3年後、「あ」から「ん」までの母を呼ぶことで母は部屋に戻ってくる。「あ」から「ん」がさらに細分化された母がすべて呼び出されて戻ってくると、大回転を始める。ヤツノは「回転して戻って来て何の変化もないのに、ただ母全体がこの世にあることを感ずるだけで、身の毛のよだつような感動と法悦と恐怖」(p.178)を感じる。(「母の大回転」)

 本書は、母娘の葛藤と和解を描いた三部作を一冊にまとめたものである。当然、フェミニズム小説として読むことができるが、「母」を「言葉」におきかえると、作者の言葉に対する葛藤と克服の書として読むことも可能になる。すなわち、言葉が自由にならず小説を書くことができない時期から、ひとつひとつの言葉(「あ」から「ん」)に想像を巡らせ、言葉の操作の試行錯誤を経て、言葉を自分のものとしてこれから小説を書く自信を取り戻すまで、その過程を描いた作品として読むこともできるだろう。
 いずれの読み方をするにしても、「あ」から「ん」の母が大量発生して大回転をする様は、理屈抜きに、無意識の底に眠る「母」なるものに対する読者の感情を揺り動し、快感を与える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

蹴りたい背中

蹴りたい背中
綿矢りさ
河出文庫、2007.4.10(¥380)

 高校生になった私(長谷川)は、クラスのグループに入らず、同じ中学を卒業したクラスメートの絹代を通して世界とのつながりを保っている。しかし絹代も他のクラスメートとのつながりを大事にしていることで、私は孤独感をつのらせている。ふとしたことから同じようにグループに入らないでいるにな川に興味をもった私は、にな川の趣味につきあう。しかしそのうちににな川の持つ趣味の世界に自分がいないことにいらだちを覚え、言葉にならない感情を背中を蹴るという行動で表す。しかし、にな川は私の気持ちに気づかない。
 「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。」(p.7)という印象的な文章で始まる「蹴りたい背中」は、青春小説として私の気持ちの揺らぎを克明に描き出す小説であるが、同時に、高橋源一郎が文学界(2007.3号)で言うように、すべてを捉えて表現しようとする、作者の観察に対する信念が表現された小説でもある。ストーリーが平板という評価もあるが、少なくとも、19才でここまで書くのは才能だろう。
 2004年芥川賞受賞作。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

言葉の冒険、脳内の戦い

言葉の冒険、脳内の戦い
笙野頼子
日本文芸社、1995.07(図書館)

 笙野頼子は、1981年に最初の文学賞を受賞してから、1992〜1994年にかけて三つの大きな賞を受賞するまで、約10年間の長いスランプを、ほぼひきこもりのようにして自らの言葉の実験をくり返して過ごした。笙野の文学的テーマは、「幻想と現実の輪郭を見定めること」であるが、それは表象の限界に挑み、語り得ないことを語ることでもある。 語り得ないものを言葉というできの悪い表現手法で語ろうとすれば、それは内的な葛藤を乗り越えていくしかない。「[文学とは]作者から読者へ、お互いの生活や感情や知識や記憶を媒介として手渡すべき、思考実験の成果である。実験である以上、あるテーマについて整然とは語りたくない。むしろ論理の歪みや矛盾や葛藤を手がかりに描いていく。語り得ないものを無理に語る。」(p.34)そしてそのような文章は、自らを純粋言語というサイボーグと化し、「いったんは文章の世界の深海のような、あるいは真空宇宙のような広いところを、機械と化して通過してこないとだめだ」(p.36)と笙野は語る。
 笙野は、前衛ジャズを聴くことが趣味のようで、ドリーベーカーや小山彰太について書いているが、言語に対する諦念は、音楽評論の一文にも現れる。「評論の出来ない人間が文章で他者を描写すればどんな書き方をしても結局悪意になってしまうのだとライブハウスについてからその日完全に判った。演奏する体に、汚い言語で、横から音楽の営みを切り取りにくる人間は害虫といえる。」(p.139-140)
 小説家がここまで深く言語を思考している、ということがわかるエッセイ集。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宮部みゆきの謎―最強の女流ミステリを徹底分析する

宮部みゆきの謎―最強の女流ミステリを徹底分析する
野崎六助
情報センター出版局、1999.6.3(古書¥500/¥1200E)

 宮部みゆきは、現代を代表する女流ミステリ作家である。本書は、それまでの宮部の全著作を分野ごとに分類してその広がりを把握し、その上でミステリ作家の潮流の中に宮部を位置づける。その後、それぞれの著作について短評を加え、宮部の著作に存在する構造的な傾向(たとえば、宮部の著作では、他の作家にみられるような、作中人物を複数の著作に流用して登場させるようなことがほとんどない)や、現代社会に対する問題意識(たとえば、疑似家族を登場させることで、「家族」とは何か、について著作によって思考を展開する)について解説を加える。
 本書の発行が1999年であることから最近の著書については解説がないが、宮部の全作品の分類一覧図を見ると、今までは社会は現代ミステリに分類される作品ばかり読んでおり、ハートウォーミングに分類される作品をほとんど読んでいなかったことが一目瞭然で、自分がどのように宮部を読んでいるかがわかる。
 これまでも宮部を読んだ来た読者には、これから読む著作を選択する際に利用できるし、宮部を読んだことがない読者には、宮部の全体像をつかむのに便利なガイドブックといえる。ただし、ネタバレが随所にあるので、その点には注意が必要。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

知の教科書 カルチュラル・スタディーズ

知の教科書 カルチュラル・スタディーズ
吉見俊哉
講談社選書メチエ、2001.4.10(¥1,600E)

カルチュラルスタディーズの手法を、メディア・サブカル・エスニシティ・ジェンダー・歴史のそれぞれの分野を例にとりながら解説する。
カルチュラルスタディーズ自体がただの衒学的な「学問」なのか、自分の理解力が足りないのか、自信がもてないが、結局、それぞれの専門研究(メディア研究・ポストコロニアル批評・フェミニズムetc)と何が違うのかよくわからなかった。巻末のキーワード解説は、役に立った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文学なんかこわくない

文学なんかこわくない
高橋源一郎
朝日新聞社、1998.10.30(図書館)

文学の読み方を、文学作品やアダルトビデオを実際に「読む」ことで、読者に見せていく。
「教科書が教えない歴史」や「失楽園」を完膚無きまでにたたきのめす様は、一種爽快。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論
大塚英志
講談社現代新書、204.2.20(古書¥500/¥950E)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »