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ニッポンの小説ー百年の孤独


高橋源一郎
文藝春秋、2007.1.10

明治維新とともに生まれた近代文学について、フタバテイを「百年の孤独」の魔術師にたとえ、「百年後にまた無の中に消え去る」運命にあるのかを様々な小説・詩・批評を引用しながら講義形式でつづる。
高橋の興味は個々の小説の内容にあるのではなく、百年の歴史をもつ「ニッポンの小説」に共通する要素、あるいは構造、を解き明かしながら、小説の将来を考えることにあるように見える。

ある部分ではそのキーワードの一つとして「死者」が挙げられている。文学は、「死者たちのため・死者たちに代わって」代弁していると考える小説家によって、生者たちの『政治的正しさ』を証言するために、「歴史の法廷」に「死者たち」を証人喚問してきた。しかし、それは、存在論の語法を使うことによる暴力に他ならない。
「わたしの考えでは、『存在論の語法』とは、何ものかを『存在』させようという語法です。そして、『文学』における、そのもっとも有効なやり口を、わたしたちが『リアリズム』と呼びならわしてきたことは、あなたたちもご存じのはずです。」(p.211)

また、ある部分では、その発祥は同根である詩と小説が対比される。
「『ニッポンの詩』は、百年の時を経て、〈価値〉に、いや〈価値〉のみが存在する世界にたどり着いた。だが、『ニッポンの小説』はいまも〈意味〉をもっとも重視する。」(p.392)
「だが、小説は、完全に〈無意味〉になることはできない。いや、完全な〈無意味〉には、耐えられない。だから、無意味に包囲されながら、『ない』表現で包囲されながら、ただ一つ、『小説』が〈意味〉として突出する。」(p.393)

さらにあるところでは、フタバテイが魔術師になりえたのは、彼がロシア語と日本語を知っていたから、と次のように述べる。
「二つの言語を知る、ということは、言語の構造性に否応なく気づいてしまう、ということなのです。」(p.416)

高橋は、小説について語りながら、言葉が持つ力、言葉を自由に使っていると思いながら、実際には言葉に使われてしまうという言葉の不思議な性質についてとても深い関心を寄せていて、最後はそこに行き着いている。
まとまった結論があるわけではなく、様々に思考が寄り道しながら進んでいくが、それがとても面白く読めるようになっている。

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コメント

『文學界』に連載されているやつですね。

投稿: 劇団天野屋 | 2007/04/18 21:29

よくご存じで。

投稿: 本人 | 2007/04/19 15:22

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