おっぱいバレー

おっぱいバレー(DVD)
監督:羽住英一郎
出演:綾瀬はるか、青木崇高、仲村トオル、石田卓也

綾瀬はるか演じる教師が、生徒に「一勝したらおっぱいを見せる」と約束したことで起こるさまざまな出来事。1979年の北九州を舞台にしているので、当時の歌謡曲が沢山BGMとして使われている。
町の様子などが1979年より少し前に感じた。

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ラースと、その彼女

ラースと、その彼女(DVD)
出演:ライアン・ゴズリング、エミリー・モーティマー、ポール・シュナイダー、パトリシア・クラークソン

本当は映画館で見たかったが、時期を逸したためDVDでの鑑賞。

極端な人見知りのラースは、リアルドールのビアンカを彼女として皆に紹介し、生活を始める。

色々な解釈ができる映画だと思う。自分は、幼くして母を亡くしたラースが、大人になるためにもう一度最初から人生を体験し直すために選んだ相手がビアンカだった、という見方をした。
カナダの田舎で撮られていて、周りの人も素朴な暖かさを自然に演じている。最近のやり過ぎな演出を我慢して、その一歩手前で抑えた演出が、この作品を価値あるものにしている。

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ルポ 貧困大国アメリカ II

ルポ 貧困大国アメリカ II
堤 未果
岩波新書、2010/1/21

「貧困大国アメリカ」の続編。前作でキーワードだった「行き過ぎた市場原理」を再びテーマに、リーマンショック・オバマ当選以降のアメリカを描く。

アメリカが一昔前とは大きく変わったということをうまくまとめて描いた本がこれまであまりなかったので、出版戦略的にブルーオーシャンといえる分野をついたと言えるのではないか。題名も「貧困大国」と一般のアメリカのイメージとはかけ離れた単語を使うことでインパクトを強めている。内容もしっかりとインタビューなど調査されているので、読み応えがある。著者の出自や川田龍平氏と夫婦であることなどを見るとかなり岩波の好きそうな人種だが、それを割り引いて読んでも、続編として非常によく書かれていると思った。「政権交代」というキーワードだけで盛り上がって、その後だまされたことに気づいても・・・というくだりは、日本の今の状況にもぴったりあてはまるが、著者がそこまで含意したかどうかはわからない。

1. {大学の経営難→学費値上げ、公的奨学金の縮小→自己破産の許されない高利民間学資ローンの拡大}→大学間格差と破綻する学生達
2. 企業年金の拡大→企業経営の悪化と倒産(ex. GM)→高齢者の生活苦+高齢者を養うためにワーキングプアとなる若者達
3. 民間医療保険による医療崩壊+国民皆保険制度導入の失敗→妥協したオバマ→まともな医療を受けられない一般市民と疲弊する医療現場
4. 借金漬けの囚人達(ex. 有料の日用品)+ホームレスを犯罪者として刑務所送り→刑務所人件費は第三世界より安く言葉もわかる優良労働者+刑務所リートは高利益産業:恐怖に支配される国民(テロ防止のための愛国者法など)

このホームレス人口の増加が刑務所人口の拡大につながっているのだ。[中略] 不況下で急激に増え続けるホームレス対策として各自治体が厳罰化を適用、ホームレスを犯罪者として取り締まり始めたことが明らかにされている。(p.182)
「問題は、この国の国民が恐怖にコントロール左列づけていることです。国民は「テロとの戦い」というキーワードにあおられて、ふくれあがる軍事予算と戦線拡大を黙認し、次々に現れる病気への恐怖から薬漬けになり医療破産している。学位がないとワーキングプアになると思いこまされ、法外な学費を払うために高利で借金をする。ホームレスになり刑務所に入った後もさらなる借金スパイラルが追いかけてくる、といった具合です。」「一部の人々をのぞいて、国民全てが借金漬けになってきていますね」「ええ、「国民総借金大国アメリカ」というわけです。一部の人々にとってみれば、より効率よく利益を生み出すシステムに近づいているとも言えますね」(p.193)
「そして今国民は、日常を脅かす凶悪犯罪への恐怖におどらされ、新たな刑務所建設や厳罰化を支持している。ある日突然転落した自分自身が、塀の向こうの巨大な工場を支える囚人達の一行に加わるかも知れないことなど夢にも思わずに、です。私たちはいい加減気づかなければなりません。こうした恐怖というものが作り出されるプロセスと、それによって恩恵を受ける存在のことを。國とはいったい何なのか?なぜこの國では私たちの税金が、学生よりも囚人を生み出すために使われているのか?犯罪を減らす最大の政策は「厳罰化」ではなく、「教育」です。[中略] アメリカが直面している危機は、金融危機などではなく、人間に投資しなくなったことなのです。[後略]」(p.194)
「自分が強く信じていたものが本当はそうでないとわかったとき、それを受け入れるのは辛いことです。思い入れが強ければ強いほど、違うと認めることで自分が否定されるような気がする。そんなとき、人は無意識に正当化する言い訳を考えて、自分を守るんだと思います。[中略] 今思えば、「政権交代」はチェンジのスタート地点にすぎなかったのに。[後略]」(p. 204)

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敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一

敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一
柏倉康夫
左右社、2008/10/6

明治期の外交官、堀口九萬一の評伝。詩人堀口大学の父。日露戦争のときにアルゼンチンから巡洋艦「日進」「春日」を買い入れ、日本海海戦の勝利の一端を外向的に担った人物。

「坂の上の雲」に描かれなかった、日露戦争の影で働いた人物に光を当てる話として書いたと、放送大学修士時の指導教官に聞いたので読んでみた。

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大暴落1929

大暴落1929 (日経BPクラシックス)
ジョン・K・ガルブレイス
日経BP社 (2008/9/25)

1929年に始まり、1930年代を通じて世界をおそった大恐慌を時系列で描き、原因を追及する。
一つの原因で発生したわけではなく、怪しい投信、ゆるい銀行審査、人々の気分、脆弱な金融制度、政府の対応の誤り、経済学者の分析の誤り、などが複合的に重なって発生したことが描かれている。

暗黒の木曜日といわれ、大恐慌発生の日とされている日の株式は、銀行団の対応などで後場盛り返し、むしろ下げ幅が小さく、むしろその後の継続的な乱高下によってなすがままになっていってからの方が下げ幅が大きくなっていった、というのは初めて知った。

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ロバート・キャンベル 講演

10/01/15
演題:「日本の近代 始めにあって今はなきものとは」
講師:ロバート・キャンベル
主催:夕学五十講

・幕末から明治初期にかけて日本人の時間・空間の感覚が変わる→「世間」が変わる
  江戸時代ーシフォンケーキのようにふわっとしているという感覚
  明治時代ーチョコレートケーキのように稠密な世界の感覚
・瓜生正和 福沢諭吉のように啓蒙的な著作で、日本が孤絶した国でないことを書いた。
  →空間的な感覚の変化
・中村敬宇(まさなお) 「光陰余り有り」時間は使い方によって余剰がある
  →時間に価値があることを知る
・最近は自己検証をすることが弱くなっているー幕末明治は逆。検証して進む。

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坂の上の雲(8)

坂の上の雲〈8〉 (文春文庫)
司馬遼太郎
文春文庫、1999/2/10

バルチック艦隊を討ち漏らし、ウラジオストックに数隻でも逃げられてしまえば、日本海の物資輸送が困難になり陸軍が最終的には孤軍となって敗北する。そのため、ロシアとの講和に持ち込むためには、何があっても全滅が絶対条件となっていた。その中で、待機中長期にわたって訓練をつんだ日本海軍の射撃精度は非常にあがり、結果として日本側の主要艦船は沈まず、日本海海戦でロシア側はほぼ全滅となった。
戦後真之は精神のすべてを使い果たしたかのようになり、49歳で亡くなり、好古は、71歳まで長命を保った。

確かに全編を通じて明治日本への愛を感じる筆であり、坂を上る様をうまく描いたとは思うし、これならば人気があってしかるべきと思う。が、事実に基づいているとはいえ、小説であるからには、著者の思想や人の好き嫌いによって傾きはあるし、それが司馬史観といわれるものなのだろうが、その点を注意して読まないと、圧倒的な筆致に飲み込まれてしまう。特に、第3巻子規の死亡以降ほぼ完全に戦争小説になって、血湧き肉躍る世界になるので、左翼的な人にはなかなか受け入れられない作品になるかもしれない。反面、乃木・伊地知を始め何人かの中心人物を批判的に描いている点で、右翼的な人からも受けいられれない作品でもあるかもしれない。ただ、司馬も述べているとおり、明治国家を描くための中心点として日露戦争を描くと決めた以上、やむを得ない展開であるとはいえる。そして、坂の上に雲を見た後は、急坂を下って日本の敗戦へまっしぐら、という筋書きになるのだろう。

大変楽しく読んだ。世間的にいつも人気ランキングトップにくる作品とのことだが、自分的人気ランキングNo1かというとそこまではどうだろうか、といったところ。司馬作品が初めてで、司馬の筆遣いに慣れないからということもあるかもしれず、再読すればもう少し印象は変わるかも知れない。それでも、これだけ感想を書くほど力を入れて読ませるのだから、自覚していないだけでかなり面白いのだろう。

[この戦勝がアジア人の地位をあげるものとして自信をあたえたのは事実だが、中国人などはまだアジア人としての意識が希薄だったためあまり反応がなかった。]ただヨーロッパにおける一種のアジア的白人国[ハンガリー、フィンランドなど]は敏感に反応し、時刻の勝利のようにこの勝利を誇った。さらにはロシア帝国のくびきのもとにあがいているポーランド人やトルコ人をよろこばせた。また元来日本びいきである南米のチリーやアルゼンチンのひとびとをよろこばせ、この海戦から時をへたこんにちなお、アルゼンチンなどは同国の大使が東京に赴任するごとに横須賀の記念艦三笠を訪問することがなかば恒例のようになっているほどである。(p.274)
戦争が遂行されるために消費される膨大な人力と生命、さらにはそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種のむなしさがつきまとう。「戦争というのはすんでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない」という意味のことを、日本の将軍のなかでもっとも勇猛なひとりとされる第一軍司令官黒木為楨が、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが、この場合のロジェストウェンスキーの役割はその最たるものであったかもしれない。(p.278-279)
民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。この開戦への民衆世論を形成したのは朝日新聞などであった。学者もこれに参加した。(あとがき2、p.318)
戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年jのちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。(あとがき2、p.321-322)
まず旅順のくだりを書くにあたって、多少、乃木神話の存在がわずらわしかった。それを信奉されているむきからさまざまなことを言ってこられたが、べつに肯綮にあたるようなこともなかったので、沈黙のままでいた。日露戦争後、旅順は地理的呼称をこえて思想的な磁気を帯びたようであり、その磁気はまだ残っている。(あとがき4、p.329)
かれ[乃木]の最大の不幸は、かれの参謀長として少将伊地知幸介という能力も協調性もひくい人物をあてがわれたことであった。(あとがき4、p.336-337)
子規のあかるさは、そういうところにあったであろう。かれは開明期をむかえて上昇しつつある国家を信じ、らくらくと肯定し、自分の壮気をそういう時代気分の上にのせ、時代の気分とともに壮気がふくらんでゆくことにすこしの滑稽感もいだかず、その若い晩年において死期をさとりつつもその残されたみじかい時間のあいだに自分のやるべき仕事の量の多さだけを苦にし、悲しんだ。(あとがき5、p.349)
その戦勝はかならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず、たとえば軍部は公的であるべきその戦史をなんの罪悪感もなく私有するという態度を平然ととった。もしこのぼう大な国費を投じて編纂された官修戦史が、国民とその子孫たちへの冷厳な報告書として編まれていたならば、昭和前期の日本の滑稽すぎるほどの神秘的国家観や、あるいはそこから発想されて涜武の行為をくりかえし、結局は日本とアジアに十五年戦争の不幸をもたらしたというようなその後の歴史はいますこし違ったものになっていたに違いない。(あとがき6、p.363-364)

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坂の上の雲(7)

坂の上の雲〈7〉 (文春文庫)
司馬遼太郎
文春文庫、1999/2/10

伝統的なロシア軍の退却戦略にのせられ、損害を拡大しながら前進した日本陸軍は、ほとんど戦力の限界をむかえていた。予備兵力をほとんど持たないまま、重厚な陣を敷くロシア軍と全面会戦に及ぶ。勝利は不可能と思われた中、ロシア軍司令官クロパトキンの弱気によって、かろうじて勝利を得る。
バルチック艦隊はいよいよ対馬に接近するが、参謀真之はロシア艦隊の進路を対馬か津軽かで迷い精神に異常をきたすほど追い詰められる。そしてバルチック艦隊は発見され、対馬を目指していることがわかる。

司馬の筆は、やはり陸軍には辛い。包囲戦というのは大兵力が小兵力を包囲するのが定石だが、奉天会戦は、寡兵の日本軍が大兵力を擁するロシア軍を包囲するという非常識な戦略で、勝ったのはいくつもの偶然と、クロパトキンの性格的な弱気による僥倖にすぎない、と書く。しかも、奉天会戦後もロシアはハルピンでの会戦にそなえ、続々とシベリア鉄道で兵力を送ってくるのに対し、日本には兵力を増強する国力はほとんど枯渇していた。それ故に、ロシアはこの時点での講和には応じなかった。しかし、戦勝に酔った新聞と国民世論は、景気のよいことばかりを言って、真実を見ない。そのため、児玉は講和のタイミングを逸しないため、あえて満州の戦場を離れ、政略のため東京へ戻らざるを得ない。結局、講和の成否は最後となるべき日本海での海戦に持ち越された。

奉天会戦において日本軍がはたして勝ったかということについては、ヨーロッパの専門家たちのあいだでも相当論議された。(p.175)
児玉が閉口しきっていることは、新聞が連戦連勝をたたえ、国民が奉天の大勝(下線部傍点)に酔い、国力がすでに尽きようとしているのも知らず、「ウラルを越えてロシアの帝都まで往くべし」と調子のいいことをいっていることであり、さらににがにがしく思っていることは政治家までがそういう大衆の気分に雷同していることであった。(p.192)

この巻でも、司馬は日本が略奪をしなかったことを再度述べているが、明治と昭和の日本は違うのだ、ということをよほど強調したかったのかもしれない。

日本はこの戦争を通じ、前代未聞なほどの戦時国際法の忠実な遵奉者として終始し、戦場として借りている中国側への配慮を十分にし、中国人の土地財産をおかすことなく、さらにはロシアの捕虜に対しては国家をあげて優遇した。その理由の最大のものは幕末、井伊直弼がむすんだ安政条約という不平等条約を改正してもらいたいというところにあり、ついで精神的な理由として考えられることは、江戸文明以来の倫理性がなお明治期の日本国家で残っていたせいであったろうとおもわれる。(p.218)

また、日本の新聞についても、再び強烈な批判をしている。日露戦争は、短期決戦で6分4分の優勢に持ち込み、すかさず外交的に講和を結ぶことで有利に戦争を終結させる、というとても細い綱を渡る戦争であり、戦後その分析をすべき新聞はその役割を放棄した。そのためにその後の昭和期の日本の破滅を招くことになる、という司馬の考えに基づく批判であるが、その批判が環境の全く変わった今日現在でもまったく同様にあてはまるところに、日本のメディアの進歩のなさが現れていると言えるだろう。

日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。(p.230)
日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。(p.250)

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坂の上の雲(6)

坂の上の雲〈6〉 (文春文庫)
司馬遼太郎
文春文庫、1999/2/10

黒溝台まで進んだ日本軍にロシア軍が攻撃を加える。好古は、騎兵偵察で得た情報で司令部に警告を送り続けるが、司令部は無視する。情報戦を軽視したため、陸軍は窮地に陥るが、ロシア側の判断ミスでかろうじて危機を逃れる。バルチック艦隊は様々な状況に翻弄され、航海が順調にいかない。公使館付武官明石元二郎は、諜報員として、豊富な資金をもとに、ヨーロッパ全土でロシア革命派を支援する。明石の活動開始後、ロシアでは革命運動が活発化し、社会治安の悪化とともに日露戦争継続への厭戦感が高まる。鎮海湾で待機する連合艦隊は射撃訓練など準備に余念がない。バルチック艦隊はインド洋を通過する。乃木軍を加えた陸軍は奉天を目指し、決戦は近づく。

この巻は、決戦へ向けて日露それぞれが準備をととのえていく様子を描くとともに、明石による諜報活動に大部分を費やしている。日英同盟で後顧の憂いをなくした日本が、ヨーロッパで同情を買って、外交的な部分でロシアよりも有利な立場にあったことや、ロシア帝政が腐敗しきっていることが明石の活動を成功せしめた、と司馬も述べている。が、この時代、これほど大きな諜報戦を日本が仕掛けていたというのは初めて知ったことでもあり、その能力があったことに驚いた。

日清戦争後、子規が従軍記者として大陸に渡った際、陸軍下士官が中国人に略奪行為を働いた、という描写がドラマであった。某局の日本悪玉描写はいつものことながら、太平洋戦争時の話ならばまだしも、この点につき、前後の脈絡からはずれて非常に違和感があった。そこで、本書を読む際、気をつけて読んでいたところ、子規の従軍部分ではその記述はなく、また、本巻では、下記の記述があったので、やはり小説に基づかない脚色であると思わざるをえない。また、ドラマにあった、子規が森鴎外に出会った、という点も、小説には記述を見つけることができなかった。

日本人が日清戦争や北清事変を戦ったとき、軍隊につきものの略奪事件は一件もおこさなかったということが、世界じゅうのおどろきを誘った。さらには戦時国際法に馬鹿まじめすぎるくらいに忠実であったということも、あるいはまたヨーロッパの知識人のなかにあるサムライ伝説というものも、明石の信用を援助した。(p.166)

また、当時日本の新聞が国際感覚に欠け、情報分析能力がなく、日本の方向を誤らせたことをp.217〜p.220で主張している。
明石の諜報活動が成功し、ロシアで革命活動が活発になったとき、日本の東京朝日新聞は正確な分析をせず、戦争を利するはずの革命活動に反対する記事を掲載した。

もし日本がヨーロッパ的水準の国ならば、日露開戦前後に、新聞記者がロシアの政情と社会についての情報とその分析を提供しておくべきであった。[中略]それにしても敵国の状態について不勉強すぎるであろう。そういう無知が、この見出しの感覚にも出ている。この見出しは、ロシア皇帝に対して同情的であり、革命勢力に対して多分に反感をもっていることがうかがえる。(p.218)
帝政ロシアの皇帝制(ツァーリズム)と明治日本の天皇制を同性質のものとしてとらえる捉え方の無知については、この明治三十八年一月二十五日の記事の見出しをつけた編集者をわらうことができない。その後昭和期にいたり、さらにこんにちなお、一部の社会科学者や古典的左翼や右翼運動家の中に継承されているのである。(p.218)
ついでながら、この不幸は戦後にもつづく。戦後も、日本の新聞は、ーロシアはなぜ負けたか。という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった。(p.220)
もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本におこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対的優位性といった迷信が発生せずにすんだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。(p.220)

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坂の上の雲(5)

坂の上の雲〈5〉 (文春文庫)
司馬遼太郎
文春文庫、1999/2/10

203高地を占領し、旅順港への砲撃によって旅順艦隊は全滅する。旅順要塞は陥落し、ロシア軍司令官ステッセルは降伏する。ロジェストウェンスキー率いるバルチック艦隊は前代未聞の大航海を始めるが、末期的な帝政ロシアの政治体制のためと同盟国フランスの非協力のため難航を極め、士気はゆるむ。一方、満州に展開する日本陸軍はロシアの撤退戦略にも助けられ、北上を続ける。

プレジデント09/12/14号の「日本の経営者が選ぶ」作品人気ランキングで、トップ10位に入る本はそこそこ読んでいたが、司馬遼太郎は読んだことがなかった。坂の上の雲がトップだったこともあり、読む気になったのだが、この第5巻は、確かに経営者が好きそうな話だ。乃木と伊地知率いる第三軍は203高地に目標を転じた後も損害を拡大させるばかりで全く攻略できない。そこへ総司令部から児玉源太郎がやってきて、彼らを一喝して作戦変更するや、それまで数ヶ月かかっても攻略できなかった旅順・203高地が数時間であっというまに陥落してしまう。ロシア側航海の記述もそうだが、本巻では、人を使う難しさを読む込むことができるので、経営者に共感できるところが多いのではないか。

児玉の怒りが、ふたたび上昇し始めた。[中略] 「参謀が、前線に行ったことがないというのはどういうことだ」(p.104)[中略] 乃木軍司令部の作戦と命令が、事ごとに、実情と食いちがいを生ずるのは、ひとつはここにあった。児玉はそれを痛烈に指摘し、「第一線の状況に暗い参謀は、物の用に立たない」と、切るようにいった。[中略]「いまから二、三の参謀をつれて前線へゆけ。前線の実情をよくつかんでこい。あす、わしもゆく。そのとき報告をきく」と言ってすぐ、「なにをぐずぐずしている。すぐゆけ」と、いった。(p.105)
「田中ァ、なにをぼやぼやしとる」と、児玉は田中国重少佐をふりかえるなり怒声を発した。その頭上を、砲弾が飛び去った。「馬鹿か」田中は、児玉の怒りの目標が自分のほうに転換されたことにおどろいた。「おぬしは将来、師団長にもなり、軍司令官にもなるはずの男だ。このように友軍が苦戦しちょるときに、適切な指揮に任ずるのが当然ではないか。しかるになにをぼやぼやと観戦しちょる。おぬしは外国の観戦武官か」(p.116)

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